2021年1月26日火曜日

『鬼滅の刃』雑感 ファンブック2「炭治郎の近況報告書」の内容予想


 本記事は、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴著、集英社)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。最終話までのネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴著、集英社) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



書誌情報の更新を受けて、後日談で記載される内容を予想してみました。

(※関連記事 ファンブック2の書誌情報の更新 鬼滅の刃公式ファンブック 鬼殺隊見聞録・弐 


「鬼滅の刃」公式ファンブック 鬼殺隊見聞録・弐©吾峠呼世晴/集英社


予想と根拠


主人公は誰か?

【予想】竈門炭治郎

【根拠】「炭治郎の近況報告書」という軽快なタイトルからして、炭治郎が主人公であろう。

意外だ。

以前は、炭治郎が「主人公」の物語は、第204話で終了していたのかと思っていた。「僕が主人公の僕だけの物語」という思想(第205話)からすれば、炭治郎が主人公の物語はやはり第204話で完結したように思うので、後日談の主人公は、妹か、嫁か、子どもか、善逸か、伊之助。あるいは第三者であると予想していた。


内容

【予想】メインとなるお話しは、15歳組の近況報告だろう。第204話、第205話において成立したことが伺われる、炭治郎・カナヲ、善逸・禰豆子、伊之助・アオイの3組のカップルの状況がアップデートされそうだ。

【根拠】主人公が炭治郎だから。

第204話で若干駆け足で描かれた、15歳組の恋愛事情が詳らかに描かれるのではないだろうか。


炭治郎の報告相手は誰か?

【予想】読者

【根拠】鬼殺隊は解散した。案外、誰かに対する手紙のような形での「報告」なのかもしれないが、これはシンプルに、読者に対する報告だろう。


誰かに子どもが生まれるのか?


【予想】赤ん坊が生まれる可能性はある。

【根拠】第23巻で全205話をなす『鬼滅の刃』の円環の物語は終わったのだ。とすれば後日談では、「新しい円環の物語」の「はじまり」を描くだろう。鬼舞辻無惨は最後に赤ん坊の姿で死んだのだから、反対に、カルマを負わない無垢な赤ん坊の誕生を描くのではないだろうか。

23巻発売当時のキャッチフレーズは、「全部が終わり、全てが始まる」だった。何が始まるのか?と言ったら「鬼のいない世界」だろう。

最終的にカルマを負った赤ん坊(鬼舞辻無惨)を倒して「鬼のいる世界での円環=輪廻転生」(一個人の精神性で見れば、煩悩に苦しみ続ける状態)を終わらせ、「鬼のいない世界での円環」(煩悩を滅し、コントロールできる状態)を始めたということであれば、新しい円環の物語の始まりとして、今度は無垢でカルマを負わない赤ん坊の誕生を描くような気もする。

第205話で子孫たちを描いたのは、何もカルマを負わない子どもたちという趣旨もあると思うけれど、ファンブック2に掲載される後日談では、「赤ん坊の誕生」が描かれるのではないだろうか?

生まれるとしたら誰の赤ん坊が生まれるのか?

【予想】冨岡義勇または不死川実弥の赤ん坊

【根拠】炭治郎の近況報告というタイトルからして、せいぜい、数年以内の出来事であろう。炭治郎とカナヲの間に赤ん坊が生まれるとしたら早すぎる。したがって、誰かの赤ん坊が生まれるとしたら、21歳組の冨岡義勇または不死川実弥であろう。

特に、冨岡義勇は「命を繋ぐ」という役割を錆兎から負っている。冨岡義勇の方が竈門炭治郎よりも残された時間が短いので、先に赤ん坊が生まれるとしたら竈門炭治郎ではなく、冨岡義勇の赤ん坊であろう。

しかし、冨岡義勇は物語の裏主人公として徹底的に「誰かと想いを通じ合わせる」シーンの描写が制限されている。したがって、冨岡義勇の妻が出てきたり、幸福に赤ん坊をあやすシーンの描写はないだろう。赤ん坊をあやすシーンが描かれるとすれば不死川実弥であると予想する。


炭治郎や善逸がわが子をあやすシーンは描かれるのか?

【予想】描かれない。

【根拠】戦国時代に炭吉がすみれをあやすシーンが描かれているので、それを「鏡」とすれば、炭治郎が子どもをあやすシーンは出てこない。炭治郎と子どものセットは描かれないだろうが、善逸と禰豆子と子どものシーンは描かれるかもしれない。

しかし、上記の通り、15歳組の恋愛事情の描写はあっても、子どもは描かれないだろう。早すぎる。別途記載する通り、21歳組の死別エンドも描かれないだろうし、せいぜい、第204話終了後、数年以内の話しと予想する。



冨岡義勇、不死川実弥の死別エンドは描かれるのか?

【予想】描かれない。

【根拠】タイトルから受ける軽やかな印象からして、冨岡義勇や不死川実弥の死別という顛末は描かれないだろう。


竈門炭治郎と冨岡義勇は再会するのか?

【予想】再会しない。

【根拠】

  1. 竈門炭治郎と冨岡義勇は「傍ら」にいる関係を終了したから。
  2. 義理の兄弟姉妹(我妻善逸と栗花落カナヲ)は、お別れ時に、一緒にいた時の関係性と複雑な感情を収斂して家族のアイコンを割り当てて、相手の救済(転生)をお祈りしているように思う。同様に、竈門炭治郎は冨岡義勇に対して「兄のような父のような人」というアイコンを割り当てて、彼のその後の人生を祈っているように思う(巻末加筆モノローグより)。
  3. 竈門炭彦の夢(第205話)の解釈より。



炭治郎、義勇、実弥はアザの寿命を克服するか?

【予想】炭治郎だけ克服するだろうが、描かれないだろう。

【根拠】上記の通り、21歳組の死別エンドには触れないだろうから、6歳年下の炭治郎のアザの寿命についても描かれることはないだろう。

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なお、炭治郎のみ克服すると考える根拠は以下の通りである。

義勇が炭治郎が天寿を全うすることを祈っているから。彼の祈りは届くだろう。

第204話で加筆されたモノローグで「願う」っていってるのは、多分「神様に」対してお願いして、お祈りしているのだと思うよ。だから物語の神様は願いを叶える気がするな。

義勇が神様にお祈りしなかったのは、

1)彼が「はじまりの神様」のアイコンを与えられているというのもあるし、
2)彼の心の神様=心の中の「大切な存在」が炭治郎になるということでもあるし、
3)最終的に神様に炭治郎が「天寿を全うすること」をお祈りすることになるからだ。

だから義勇のお祈りは叶うだろう。

多分彼の「後ろめたさ」の最たるものは「アザの寿命問題」であろうから、炭治郎が天寿を全うできるよう、お祈りし続けるのだろう。そして彼の願いは叶うだろう。

「奇跡」を起こせるのか(第202話)というのは伏線で、あのときは叶わなかったかもしれないけれど、今度は彼の祈りは神様に届くだろう。

なお、アザ組の願いは

1)実弥 弟をつれていかないで ⇒ 来世で一緒になった
2)炭治郎 妹と一緒に家に帰りたい ⇒ かなった
3)義勇 「大切な人」の「天寿」

・・・じゃあやっぱり炭治郎はアザの寿命を克服するだろう。義勇は自分のことではなく炭治郎のことを願ったのだ。涙が出そうになるよ。

義勇は炭治郎が天寿を全うすることを祈る一方、炭治郎は義勇さんが精一杯生きることを祈っているようなので(仏教的には明日を憂えず今を生きよということ)、やはり炭治郎は寿命を克服し、義勇は克服できないのではないだろうか。そこかしこに伏線が。


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その他の伏線として、義勇と炭治郎の反転した鏡である縁壱とうたは、縁壱さんが長生き・うたさんが短命だったので、逆になって、義勇さんは短命、炭治郎は長生きすると思う。

また、「日の呼吸」だけは、おそらく、炭化型だと思う(酸素の大量消費を伴う燃焼型ではない)。

『鬼滅の刃』考察 なぜ「日の呼吸」は特別なのか? 大正時代の3人は痣の寿命問題を克服できるか?


炭治郎は冨岡義勇を「兄」と呼ぶのか?

【予想】呼ばない。

【根拠】

  1. 15歳組と21歳組の交流シーンは描かれないと思う。
  2. 仮に交流シーンがあったとしても、炭治郎の口から義勇との関係性の言及はないだろう。炭治郎と義勇が二人三脚して駆け抜けた、「二人の物語」は第204話で終わったのだ。
  3. 仮に炭交流シーンがあったとしても、巻末のモノローグに冨岡義勇へのメッセージが含まれているとすれば、炭治郎にとって冨岡義勇とは「兄のような父のような人」として既にアイコンを割り当てているので、やはり重ねて呼ぶことはしないだろう。


※ 栗花落カナヲ、我妻善逸は、それぞれ死別した人に「姉」「兄」などアイコンを割り当て、一緒にいた時の関係性と複雑な感情を収斂して家族のアイコンを割り当てて、相手の救済(転生)をお祈りしているように思う。

師範→姉さん

獪岳→兄貴

戒名みたいな発想だろうか。

善逸が獪岳に「兄」のアイコンを割り当てたのは、自分の感情を整理して、前を向いて歩み続けるため、というような理由もさることながら、彼を赦し、祈りを捧げるためなのかもしれない。祈ることで、来世に繋いであげたいのではないだろうか。相手に対する複雑な想いを整理して一つのアイコンをあてる。そしてひたすら祈る。彼の代わりに赦しを乞う。

栗花落カナヲも似た感じがする。アイコンを割り当てて、生前相手に対して抱いていた愛着関係を昇華している気がする。

そのため、かつては、「竈門炭治郎も、離別した冨岡義勇に対して、感情を供養するために関係性に名づける日が来るのか?」悩んだことがあった。しかし、巻末のモノローグは、冨岡義勇に対するメッセージも含まれていると解釈でき、そこで「兄弟のような親子のような」と言っているので、さらに重ねてアイコンを割り当てることはしないだろう。

まさに、「藤の花」を見て炭治郎は冨岡義勇を「兄のような父のような人」(=保護者)として整理することにしたのだろう。