2020年8月30日日曜日

「神様はじめました」考察 巴衛のガマ子への台詞の意図を読み解く(第13巻第77話)

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


考察の趣旨


今回は、巴衛がかつて犬鳴沼でガマ子に向けた台詞や一連の行動(第77話)の意図を考えてみたい。

錦編では、岩場の番人の妖怪であるガマ子が奈々生の体に取りつき、明らかに挙動不審だ。沼皇女は速攻で見抜くが巴衛は気づかない。「神社を捨てよう」と言われた時点で気づくが、その後「おもちゃ」にし始める。この一連の巴衛の反応の不可解さは何なのか?

巴衛の行動の不可解さの正体


巴衛の本質は「欲望のままに生きる妖」である。私欲に囚われず心眼でモノをみることができない。「心」(魂)よりも「体」(器)を重視している。実は巴衛がもともと惹かれたのは、奈々生の心(魂)であって、体(器)ではないのだが、巴衛はよく理解していない。なにしろ、自分自身の心にも無頓着なのだから。

ゆえに、愛情表現は「食べさせること」その他物理面であり、「言葉」で愛情表現したがらない。奈々生の「意思」(心)を無視してでも危険から遠ざけようとする。奈々生の「心」に寄り添う瑞希とは正反対なのである。



ガマ子に対する台詞の意図は?



私は当初、巴衛がガマ子の魂を追い出して奈々生の魂を取り戻すために、巴衛が敢えて重い愛を告白し、噛みついたと理解した。その際、奈々生に対する本心も吐露されているのだ、と読んだ。

しかし、巴衛の本性を上記の通り、理解した今、巴衛は本気でこの機会に奈々生を食べてしまうつもりだったのではないかと思っている。

「お前が奈々生の中にいてくれるなら もはや遠慮はいるまい 俺にとってまさに幸運ではないか なあ奈々生」

奈々生が戻った後の巴衛の台詞(「お前の体に憑りついてた邪な魂を追い出してやろうとしただけなのだ」)と裏腹に、巴衛の顔はどこか白々しい。
第13巻第77話

神使は神に勝てない決まりであり、奈々生本人の場合は言霊縛りで絶対服従のため、襲うことなど無理だけれど、奈々生の魂がない今、まさに好機ととらえて喰ってしまうつもりだったのだろう。我慢できずに。「我慢すればよかった」という第78話のモノローグはつまり、そういうことだろう。

むしろそう理解したほうが、その後ミカゲの暗示が本格的に解けはじめて呪いが発動したことも納得できる。「神使」としての本分が頭から吹き飛ぶほど奈々生を求めるようになったということなのだから。

そうすると、やはり、巴衛が妖怪の本性を出して本気で求めたら、噛んだり爪を立てたり、果ては貪り喰ってしまうのだろうか? ガマ子向けに脅しのつもりで言ったのかと読んでいたが、そういえば過去編でもともと巴衛はそういう妖怪であった。神使になっても本性は変わっていなかったのだ。たしかに、そんな求められ方であれば、命がいくつあってもたりない・・・。 


奈々生の命の安全のためにも、巴衛は人間になってよかったのかもしれない・・・。


第13巻第77話
思えばこのコマ、妖怪の本性が出ている・・・


一連の描写や巴衛、ガマ子の台詞からみればこのように理解するのが自然なのだが、当初そのように読み取ることができなかった。私は巴衛をどこか人間の普通の男子と同じような存在として理解したがっていたのだろう。かつての奈々生のように。

しかし、彼の行動規範は人間のそれではなかったのだ。巴衛の本性は、「欲望のままに生きる妖」なのだから・・・。