2020年8月24日月曜日

「神様はじめました」考察 なぜ二人はすれ違うのか? 巴衛と奈々生の愛し方の違い 愛を「行動」で示す巴衛と「言葉」で伝える奈々生

本記事は、「神様はじめました」(鈴木ジュリエッタ)の考察記事です。

作品の内容に関する感想を記載するという記事の特性上、ネタバレを含みますので、ご注意ください。

今回は、「巴衛と奈々生の愛し方の違い」について、考察します。

※ あくまで個人の感想です。





巴衛の愛し方と奈々生の愛し方は、たまに食い違って、それぞれが、それぞれに、自分の方ばかりが相手を好きだと思ってしまうのです。

過去編前の奈々生は、いつか巴衛と離れるときがくるのを覚悟をしたうえで、今そばにいることを大事にして巴衛を想っていました(詳細は、別記事 「神様はじめました」考察 「巴衛との本当の距離」とは何か? 奈々生の心情の変化について)。

一方、巴衛は、どんどん奈々生に傾倒していき、執着していました(詳細は、別記事 「神様はじめました」考察 巴衛の奈々生に対する想いの変化)。

奈々生の愛し方は刹那的ですが、巴衛の愛し方は深くて重いのです。

沼皇女との恋バナで、愛したら「俺ならばどんな手段を使っても手放さん」(第12巻第72話)、「俺にとっての恋の成就とは共に生きていくことだ」と言っていますが(第25巻第145話)、さらに深掘りすると、巴衛の愛は深くて重たいのです。巴衛が「添い遂げたい」という言葉には、過去編の描写をみるに、「死後も同じところへ還りたい」ということまで含まれているのですから。

一方、奈々生は悪羅王編で死が間近なものとなり、イザナミから人の還る場所を見せられるまでは、そこまでの想いは抱えていなかったでしょう。思いもよらないといったところでしょうか。


また、巴衛は「欲しいと思ったら貪り喰ってしまう …お前を想えば想うほど爪を立ててしまう」という台詞(第13巻第77話)の後、実際に血が出るくらい噛みついてしまっています。巴衛が妖怪の本性を出して本気で求めたら、噛んだり爪を立てたり、果ては貪り喰ってしまうのです(「神様はじめました」考察 巴衛のガマ子への台詞の意図を読み解く(第77話))。


奈々生の「結婚しないわ 絶対」宣言(第11巻)にショックを受けていたのも、奈々生が自分のことを「好き」だとは言いつつも、その先どうするかが全く念頭にないことにショックを受けたのです。巴衛からすれば、恋の成就とは共に生きること、すなわち、添い遂げることなのですから。


私は、当初は過去編で奈々生と巴衛の恋愛は実質完結し、その後は悪羅王の因縁解決にテーマが移ったと読んだのですが、そうじゃなかったのですね。

「相手との気持ちがずれてる状態」「かみ合わなさからくるすれ違い」は継続していたのですよ。

だからこそ、

「俺のものになれ」(500年前)
  ↓
「お前は俺のだろう・・・?」と疑問符付きの台詞(現代でのお付き合いスタート後)。
  ↓
「・・・やっと俺のものだ」(結婚式)

という一連の台詞が出てくるんですね。

なお、巴衛は、自身については、出雲試験の頃に、無意識に「俺はお前のもの」と言ってしまっているのですよ・・・。

(詳細は、別記事 「神様はじめました」考察 「巴衛との本当の距離」とは何か? 奈々生の心情の変化について


想いの伝え方の違い:言葉の奈々生と行動の巴衛


巴衛と奈々生は、想いの伝え方が違います。現代の巴衛は、愛を「行動」で示し、奈々生は愛を「言葉」で伝えるのです。

巴衛は自分の心にも他人の心にも無頓着です。「自分の気持ちを言語化すること」が得意ではないともいえるでしょう。だから、巴衛はいつも他の誰かに指摘されて自分の気持ちを自覚します。また、そもそも「心」を軽視しているから、奈々生への愛情表現は「心」に寄り添ったものにならないのです。

(詳細は別記事 「神様はじめました」考察 巴衛の本性解明 なぜ別人と気づかない? なぜごはんで愛情表現するのか? 奈々生にできて巴衛にできなかったこととは?

そのため、巴衛の台詞だけ追ってるとよくわからないけど、彼の行動まで含めてみると、奈々生を好きだということがわかります。

沖縄修学旅行で、巴衛が、「俺はいつも素直だ 愛情表現に抜かりはない」という台詞があって、私も奈々生同様、「そうかなー」と思っていたのですが、巴衛が愛を「行動」で表現しているとすれば、たしかに納得です。


最たる例である、ともえのごはんや、かんざしを渡すシーンについては別記事で詳細を検討しました。

「神様はじめました」考察 ともえごはんは何を意味するのか?

「神様はじめました」考察 巴衛と奈々生の愛情表現の違い 再びかんざしを渡した行為の意味とは?「当然だ」発言の真意は?(第101話)