2020年9月1日火曜日

「神様はじめました」考察 物の本質をみる(1) 「私欲に囚われず心眼でモノを見られるかどうか」 巴衛の行動の不可解さの正体は

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。




今回の考察内容


  1. なぜ巴衛は別人と気づかないのか?
  2. 巴衛は器重視で物事の本質を見破ることができない
  3. 「お前のほうがよっぽどしっかりしている」の意味は?
  4. 瑞希との対比
  5. 巴衛は変わるのか?
  6. 本作品の面白さ


私がここまでこの作品を読み返すのには理由があった。巴衛の描写にどうしても拭いきれない違和感を感じていたからだ。

なぜ巴衛は別人と気づかないのか?


500年前の巴衛が好きになったのは「過去にタイムスリップした奈々生」だったが、奈々生が過去に干渉しないように努めたこともあり、過去の巴衛の認識としては、「過去にタイムスリップした奈々生」=雪路ということになっていた。

雪路と奈々生は、容姿は実は大変似ていて違いは雰囲気と「目」。初めて会ったときは奈々生の魂が雪路の体に入った状態だったが、その目に現れた、おそらくは彼女の意思の強さなど奈々生ならではの性質に巴衛は惹かれたようだった。

雪路は亡き夫との子を無事に出産したいという想いから、巴衛に助けを求める。が、その後は死ぬまで巴衛の前では目を開かなかった。だから巴衛は別人だと気づかなかった。変わってしまった雪路に違和感はあるが、以前の雪路(実は、奈々生)を忘れられず、以前の雪路(奈々生)にまた戻ることを願う。そたのめに、龍王の眼をとってきたり、黒麿との間で人間になる契約を結ぶ。しかし、雪路は雪路のまま、目を開くこともなく逝ってしまう。

しかし、いくら雪路と奈々生が似ているからといって、別人なのに気づかないのか? しかも、雪路に違和感を感じていたのに、また以前の雪路(奈々生)に戻ると信じて疑わず、神堕ちの黒麿に人間にしてもらう契約までするのは短絡的ではないか?

また、過去編に先立つエピソードとして、錦編では、岩場の番人の妖怪であるガマ子が奈々生の体に取りつき、明らかに挙動不審だ。沼皇女は速攻で見抜くが巴衛は気づかない。「神社を捨てよう」と言われた時点で気づくが、その後「おもちゃ」にし始める。この一連の巴衛の反応の不可解さは何なのか?

巴衛はものの本質を視ていない


実は、巴衛は、「心」(魂)(本質・中身)(意思)よりも、「体」(器)(外観・見た目)(行為)を重視しており、物事の本質を見破ることができないのだ。

巴衛自身は、自分が奈々生のことを一番よく知っていると自負しているが、実はそうではない。奈々生の区別もついていない。そもそも、ものの本質が視えていないのだ。

振り返ってみればそれを伺わせる多くの描写がある。

  1. 奈々生の幼女バージョンが出てきても気づかない(十二鳥居編)
  2. 奈々生の体にガマ子の魂が入っており、違和感を感じても奈々生の体(器)の方につきそっていた(錦編)。
  3. 過去でも、雪路と奈々生が別人なのに、雪路に付き添っていた。雪路と奈々生はモチーフとして魂は違うけれど同じ体(器)的な位置づけだ。
  4. 物の本質をみえていないという易者の指摘(年末闇市エピソード)
  5. 沖縄の巫女を見抜けない(詳細は別記事 「神様はじめました」考察 物の本質をみる② 「お前も変わらねばならんよ」沖縄の巫女からのメッセージとキツネ姿になった意義

瑞希「巴衛君って奈々生ちゃんは人間だって意識が本当に強いんだねー 僕には神様にしか見えないけどな」(第5巻第26話)

巴衛「当たり前だ 奈々生のことは俺が一番よく知っている くせも 仕草も 甘い匂いも」・・・瑞希「巴衛君っ 今のが奈々生ちゃんだよ 奈々未ちゃんの意識が12年前に戻ってるんだ」巴衛「(あれが奈々生?)」(第11巻第61話)

うさぎの易者「あなたが思ってるよりあの子は強いわ」・・・「長年こういう商売をしているとね・・・器でなくものの本質が視えるのよ」(第11巻第65話)


第11巻第65話
「奈々生は社を捨てるなど決して言わぬ ましてやこの俺にはな だがその体は 奈々生のものなのだろう?」(第13巻)
第13巻



奈々生にできて、巴衛にできないもの。それは、かつて風神・乙比古神の言ったことだ。「私欲に囚われず心眼でモノを見ること」である。

「私欲に囚われず心眼でモノを見られるかどうか 社の神としてやっていく能力があるかどうか」(第5巻)

奈々生は初期に白蛇の姿だった瑞希を素手で握ることができたり、後半も狐姿の巴衛も変わらず愛している。そして、ついには時廻りでわずかに巡り合った悪羅王と霧仁が同一人物であることを看破する。

これはつまり、彼女が私欲に囚われず心眼でモノをみているからに他ならない。


「お前のほうがよっぽどしっかりしている」(第24巻)


夜鳥は巴衛のなかにある、本質をみない姿勢、すなわち、器を重視し心を軽視してしまうあり方を映す鏡である。

夜鳥は悪羅王に執着し、霧仁が悪羅王の本質だということを理解していないとして、奈々生に糾弾される。

「・・・人間でも妖怪でも 大事なのは器じゃなくて心だよ 本当に誰かを求める時 欲しいのは体じゃなくて心でしょ」
「たとえ悪羅王の体を手に入れても 霧仁の心が入ってなきゃ それは悪羅王じゃない」
「それでもいいて言うなら あんたは悪羅王の強さと不死の体に執着しているだけの薄っぺらい男だわ」
 (第23巻第136話)

奈々生の台詞は、直接的には夜鳥に向けられたものだが、実は巴衛に対するブーメランでもある。

悪羅王の体(器)にこだわって自分を捨てた夜鳥は、過去に奈々生の器にこだわって死にかけた巴衛を映す鏡である。

そもそも、巴衛も霧仁と遭遇する機会が2回あった(黄泉篇と沖縄修学旅行編)のに、霧仁が悪羅王であることを見破れなかった。かつて兄弟と呼び、長く時を過ごした存在であるにもかかわらず。黄泉で会ったときは悪羅王の記憶を失っているのでやむを得ないが、沖縄修学旅行のときは悪羅王のことは思い出しているのに。

第19巻第108話


第21巻第120話より

一方、奈々生は、過去編の時廻りという短い時間での邂逅であった悪羅王と、霧仁が同一人物であることを見破っている。

巴衛は、何度も繰り返し指摘されながら、自分が物事の本質を視ていないということを理解していなかった。奈々生にできて巴衛にできていないもの。だから最後にこの台詞が出たのだ。

「お前のほうがよっぽどしっかりしている」(第24巻)

第24巻

巴衛と夜鳥の行き先が最終的に違ったのは、奈々生の存在である。奈々生を愛したからこそ巴衛はそのとき道を誤らずに済んだのだ。
(詳細は別記事 「神様はじめました」考察 物の本質をみる③「俺の中の奈々生」とは 十二鳥居と狐の嫁入り、「神漫画」であることの意味

瑞希との対比


実は巴衛がいかに体(器)を重視しているかは瑞希との対比でも浮かび上がる。

数々の描写から、瑞希は奈々生の本質を視ていることがわかる。

第5巻第26話

  1. 瑞希には奈々生の本質が神であることが見えている。(「巴衛君って奈々生ちゃんは人間だって意識が本当に強いんだねー 僕には神様にしか見えないけどな」(第5巻第26話))
  2. 十二鳥居編では、瑞希は奈々生を見分けたのに、巴衛は見分けられない。(瑞希「巴衛君っ 今のが奈々生ちゃんだよ 奈々未ちゃんの意識が12年前に戻ってるんだ」巴衛「(あれが奈々生?)」(第11巻第61話))


神使としても、瑞希は、奈々生の心に寄り添い、奈々生の意思を尊重するスタイルだ。
奈々生の「体」の無事を優先する巴衛と、「心」の無事を優先する瑞希と言ってもいい。

例えば・・・
  1. 十二鳥居で奈々生の過去をみたがり居座る巴衛に対し、瑞希は奈々生の心を気遣い、早く連れ出そうとする。
  2. 犬鳴沼で、多分おかしいと気づきつつも「体」が奈々生だから付き添い続けた巴衛に対し、瑞希は魂本体へ飛んで行った。
  3. 沖縄編で体調不良となった奈々生を、巴衛はホテルの部屋に問答無用でおいていく。その所業には冷たささえ漂う。一方、瑞希は、「可哀相に…楽しみにしてたのにさ」と気遣うのだ。
第19巻

第19巻


また、巴衛はキツネ状態になると、無力感をただよわせ、拗ねてしまう。
奈々生の心に寄り添うのであれば、どんな姿であっても支えられるはずなのに。

実は、巴衛は、自身の心にも無頓着である。それは、常に自らの奈々生に対する気持ちを第三者に指摘されて自覚していることからもうかがえる。

出雲では、瑞希の指摘後も納得できず、その後、奈々生に「触れて」自覚している。自分が奈々生を求めていることを。

対して、出雲で瑞希が巴衛の台詞をきいただけでその気持ちが「好き」という感情であると理解したとおり、瑞希は「心」の理解に長けている。それは、瑞希が「心」を大切にしているから。詳細は別記事に譲るが、これこそまさに「神寄り」(第20巻第115話)ということなのだ。

瑞希は、奈々生の幸せをわがことのように感じる、やわらかで優しい心の持ち主だ。

第22巻


巴衛は変わるのか?


上記の通り、巴衛は「体(器)」重視だったのだ。

神使となり、漂白されたような顔をしているものの、巴衛の本質は、「欲望のままに生きる妖」なのである。だから、「私欲を捨てて物事の本質を見破る」ことができない。

巴衛の奈々生に対する愛情表現が首尾一貫、「食べさせること」であるのも、体(器)を重視しているからなのだ。

瑞希と対照するとわかりやすい。瑞希は食事は提供しないが、徹底して奈々生の心に寄り添い、奈々生の願いをかなえるために手助けするのだ。

巴衛の愛情表現は行動であり、言葉になかなか出さない。言葉にしてもひねくれていて、わかりにくい。真意が伝わりにくい。それも、心を重視していないから。

例えば、過去編の最後、時廻りから戻ってきた奈々生が巴衛に「行かないで」と言うのに巴衛はいなくなってしまう(第17巻第101話)。奈々生は彼と一緒にいたいと望んでいたのに、彼は「ゆっくり寝ていろ」と言っていなくなってしまうのだ。体を気遣ったのだろうが、いかに彼が「心」ではなく「体」を重視しているかの表れである。


奈々生は何度も「言葉」による愛情表現を求めているのに、彼のやり様は、奈々生の心に寄り添っていない。身体さえ健康であれば良いと思っているのであろうか。

やはりその根底には、「人は虫けら」であり、もろく壊れやすい存在だという価値観が影響している。壊れやすいから、壊れてほしくないから、何よりもまず「体」を大事にしているのだ。


第3巻第16話
(転んだだけで血が出るのだ 木から落ちたら死ぬんじゃないか? 危うい そんな生き物が 俺の神(よりどころ)なのだ まいったな 手に余る 壊れないように 壊さないように)

巴衛に「人は虫けら」価値観が残ってる限り、人の心に寄り添うのは難しい。

例えるなら、カブトムシを育てるときに餌やりや掃除はするけどその心までは慮らない。そんな感覚。そもそも心があるかもわかってない。考えてみれば巴衛は人間の平均寿命すら知らなかったのだ。よほど人間に心が向いてない。

だから、「人を愛する」という課題が出されたのだ。

(詳細は別記事 「神様はじめました」考察 物の本質をみる② 沖縄の巫女からのメッセージとキツネ姿になった意義



巴衛は、奈々生が壊れてはいけないと思って、奈々生の体(器)を大事にしているが、時々巴衛自身が無意識に奈々生の「心」に寄り添う行動をする(鞍馬山編、十二鳥居編、沖縄での最後の夜など)。そのため読者も混乱する。

実は、もともと、巴衛が好きになったのは、奈々生の「体」(器)ではなく、妖怪に対しても物怖じしない意思の強さであったり、苦しいときに寄り添ってくれる優しさ、すなわち、「心」(魂)の部分だったのだ。(過去編での巴衛自身の台詞はそれを物語る。)

しかし、作中何度も描かれたように、巴衛は、自身の心にも無頓着であり、誰かに指摘されないと自らの気持ちに気づかない。

巴衛の本当の想いは、何度となく描かれている、巴衛が奈々生のはじけるような笑顔を愛していること、奈々生の笑顔をみたいと願っていること、から何より明らかなのだが。

笑顔とは、奈々生が幸せを感じていること、すなわち「心」が健やかな状態であることを指すのだから。


第24巻
夜鳥が消えた後に再開した奈々生がみせる笑顔を何とも言えない表情で見る巴衛は、もしかするとこのとき、自分が愛したものが奈々生の心であったことを悟っていたのかもしれない。(詳細は別記事。「神様はじめました」考察 巴衛は奈々生の笑顔に何を見出していたのか?



作者が、敢えて、最初の出会いの時に雪路の体に奈々生の魂を入れる形で出会わせたのは、巴衛が心惹かれたのは奈々生の「魂」であり、体(器)ではなかったというヒントを読者に与えるためだろう

第3巻
過去の巴衛が目を見開くのは、奈々生の魂に触れたときであることがわかる。

悪羅王編が終わった後の最終章になり、巴衛は奈々生の「心」を気遣うようになり、言葉での愛情表現も豊かになる。それは、何よりもまず、「心」が大切であり、素直な気持ちを「言葉」にのせなければならないと知ったからなのだ。


第24巻

「お前が金銭に憂いていれば俺が賄うだけのこと 夢を見たいなら見せてやる だから望む人生を歩け どこだろうと隣には俺がいる 俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話より)

この台詞は、今まで奈々生の意思を無視して「体」を守ることを優先してきた巴衛が、奈々生の「心」に寄り添い、支える方針に転換したことを示す意味もあるのだ。
24巻


また、何よりも、これまで奈々生の「心」を支えてくれた瑞希と離れる以上、巴衛が変わることは奈々生にとっても必要だった。別記事に譲るが、奈々生は決して単なる能天気な娘ではなく、心の底に弱い部分を持っている娘なのだから。

瑞希の「ちゃんと守ってよね」という台詞(第22巻)は、ダブルミーニングなのだ。

直接的には、寿命問題だけれど、高次的には、「ちゃんと奈々生ちゃんの心に寄り添ってね」、ということなのだ。だって、霧仁に精気をあげてしまったのは、人助けのためにときには自分の生を軽んじてしまう、奈々生の心の危うい部分がそうさせたのだから。そして、もともと、奈々生のそんなところを心配して、瑞希は奈々生の神使になったのだから。

「神使っていっても巴衛君みたいな自己中とは違うからね」「僕の方が奈々生ちゃんのことずっと大事に思ってるさ」
「僕は・・・君が邪魔でいつも奈々生ちゃんを守れないんだからちゃんと守ってよね」 

なお、連載終了後に描かれた25.5巻の番外編では、奈々生の言葉に乗せない心の不安を感じとって気づかう巴衛の姿が描かれている。彼の変化を知ることができるエピソードだ。

本作は、『巴衛が心のありようを学ぶ物語』でもあったのだ。

まとめ


巴衛の本質は欲望のままに生きる妖である。私欲に囚われず心眼でモノをみることができない。「心」(魂)よりも「体」(器)を重視している。その前提で読み返すと、物語で描かれた彼の行動の意味がわかる。愛情表現は「食べさせること」だし、言葉で愛情表現したがらない。奈々生の意思を無視してでも危険から遠ざけようとする。奈々生の心に寄り添う瑞希とは正反対なのである。


実は巴衛がもともと惹かれたのは、奈々生の心(魂)であって、体(器)ではないのだが、巴衛はよく理解していない。なにしろ、自分自身の心にも無頓着なのだから。

そのため読者自身も混乱する。巴衛は普段は奈々生の意思を無視するのに、時々心に寄り添う行動をするからだ(十二鳥居編など)。


本作品の面白さ


巴衛が好きで本作品を読んでいる方は多いだろう。私もその一人だ。

しかし、掘り下げていくと巴衛の中身はやはり少女漫画のヒーローとしてあるまじき態様である。その重たい愛し方はもはや恋を超えた執着レベル。ヒロインを取り違える点も若干情けない。それもこれも、「人の心」がないから。やはり、妖怪。あんなに素敵なビジュアルなのに・・・いやいや、むしろ、妖怪設定だからこそあんなに妖艶な御姿なのかもしれない。そんなダメなところも含めて、やはり、巴衛は魅力的で、愛すべきキャラクターだ。

本作品の面白さは、ヒーローとヒロイン主人公二人の心情の核心部分を説明文で描いていないところである。読み進めないとわからない。最後まで読んでからもう一度以前の描写を読み返してわかることも多い。「実はこの人はこういう人なんですよ」というのが最後になって明かされる。

ヒロイン・奈々生も一見普通の女子高生に見えて、実に神様らしい本質を兼ね備えている。また、心の底に弱さを抱えた人物でもある。そのような奥深い女性だとは、初見では気づかないようにされているのだ。

25.5巻で最後に描かれた奈々生は、本編と違って、少ししっとりした感じで、心情のモノローグがはっきり描かれている。あれが彼女の弱い部分を正面から描いているものであり、作者の種明かしの一つなのだろう。


第25巻

「巴衛君て本当にデリカシーないよね 人としてやっていけるのか心配」

続きの記事 
 「神様はじめました」考察 物の本質をみるということ② 沖縄の巫女からのメッセージとキツネ姿になった意義

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