2020年9月1日火曜日

「神様はじめました」考察 物の本質をみる(2) 「お前も変わらねばならんよ」沖縄の巫女からのメッセージとキツネ姿になった意義

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



今回の考察内容


巴衛が本質をみていないことについて、さらに考えてみた。(前回記事は「神様はじめました」考察 物の本質をみるということ① 巴衛の本性 なぜ別人と気づかない? なぜごはんで愛情表現? 奈々生にできて巴衛にできなかったこととは?

沖縄の巫女のエピソード(第20巻第115話)の意味


巴衛が「私欲に囚われず物事の本質を視る」ことができないことが正面から具体的に描かれたのは、巴衛が沖縄の巫女に会いに行くエピソード(第20巻第115話)だ。

100年前、巴衛は少女の外見(器)で判断し、非常に神力の強い巫女であるという本質を見破ることができなかった。着物が汚れるから云々もまさに彼が見た目に囚われていることの描写だ。

第20巻第115話

「神寄りでない」として門前払いされたのは、彼が自分を巫女と見破れない=私欲に囚われずに物事の本質をみることができないこと、そして、妖の力をつかったことで、巴衛の本性が「欲望のままに生きる」妖に近いであることを見破ったからなのだ。「完璧な神使」という巴衛の台詞と裏腹に。

現代、巫女は目がみえなくなっても巴衛の中にすんでいる奈々生をみていた。それも本質をとらえているということ。

「その娘を幸せにしてやりたいなら…お前も…変わらねばならんよ…」という巫女の台詞は、「お前も人間になれ」ということではなく、「「器」ではなく「本質=心」を大事にするように」、ということだったのだ。

一緒に老いて同じ目線でみられるのは悪いことではないが、その前に変わるべき大前提があったのに見落としているのだ。「幸せにしてやる」、つまり、「笑顔にする」には、器ではなく心に寄り添うことが必要だったのに。

巫女が巴衛の再訪時に神殿の中に入れてくれたのは、あのとき巴衛に「手を引いてもらって嬉しかった」からなのだ。図らずも、巴衛の行為が、その当時の彼女の寂しい「心」を照らしてくれたから。

第20巻


しかし、巴衛は、彼女のメッセージの真意を理解しない。まさに彼女の老化、すなわち、器に目を奪われ、「奈々生と一緒に生きるなら人間にならなければならない」と考えてしまうのだ。


巫女エピソードの最後に、あなたがさみしそうだったから、と言って「心」を寄せている奈々生も対比なのだろう。

沖縄から帰った後、人間になると言いだし、まずは図書館にこもって本を読みふけるのも、如何に巴衛が即物的であるかを示してる。ルール、社会の仕組み、人間社会の知識などに目が向いたのだろう。

「心」を大事にしていたら、まずは人の輪の中に入って人の心に触れようとしたはずなのだ。人に向いているようで、人の「心」にはまだ向いていない。

人の輪の中にいる奈々生の顔が好きだという自分に気づきながらも、それが意味することをまだ理解していない。

巴衛にまず必要だったのは器を人間に変えることではなく、「心」を大事にすることだったのだ。


神様たちの導き方とキツネ姿になった意義


宿りものもそうで、ミカゲ様は蝶。見た目はちがってもそこにある本質はミカゲ様。巫女のときにまずミカゲ様が出てきたのもつまりはそういうこと。巴衛はいろいろ知る機会があったのにわからなかった。

「自分の頭で考えるのが大事なんだ」というミカゲ様の言葉や乙比古神の試験のやり方通り、神様たちは、最初から答えは教えない。出された課題をまずはがんばって考えてごらん、ということ。咲かせた花が赤い彼岸花であったのも、その花言葉に、自分の心と向き合い、真実をみつめ明らかにするというものがあるから、うなづける。


そして、沖縄で巫女が登場した象徴的意味は、巫女が神の言葉を伝える媒介だから。だから巴衛は巫女の言葉の真意を理解しなければならなかった。


しかし、理解せずに、「器」を人間に変えることに飛びついた。彼からすれば「人間になる」と言えば、奈々生が「喜ぶ」「笑顔になる」と思っていたのだ。にもかかわらず、奈々生が喜ばなかったから、拗ねたのだ。

そして、まだ待ってほしいという、奈々生の心からの言葉を無視して進化の水を一気飲みしてしまう。

第20巻


俯瞰的に見れば、巴衛は、物語の神=作者に、「もうお前は身をもって体験しなさい」ということでキツネにされたのだ。

巴衛が無力なキツネにされたのは、器よりも心が大事だということをお前も身をもって学びなさい、ということなのだ。

キツネ姿の巴衛は、ほとんど無力で最初拗ねていた。奈々生が作るお好み焼きも食べない。

自分が今まで果たしてきた、奈々生に「ごはんを食べさせる」という最大の愛情表現ができなくなって拗ねているのだ。

けれど、無力で何もできなからこそ、元気のない奈々生のそばに寄り添う。その当時彼のできる唯一のことだったからだ。

そして、黄泉にきて、巴衛は、無力なキツネ姿でも、奈々生を守りたいと思って必死でもがくのだ。キツネ姿でも果敢に夜鳥に立ち向かって返り討ちをくらい、怪我をしても亜子を背負い、イザナミの宮殿へ向かう。

それは、彼が本質が大事だと知るために必要なプロセスでもあったのだ。

だから、彼は、寿命を縮めた奈々生の心に寄り添うことができたのだ。「俺の体のことなどどうでもいい」と言って奈々生の手をとる巴衛は、口調こそ乱暴だけれど、確実に変化している(第22巻)。


巴衛がいつまで経っても本質を見極められず遂にはキツネにされてしまったころに、奈々生が霧仁の正体を看破したのもまさに対照的である。

彼女が見破れるのは、心を大事にしているからだ。退魔結界も究極的には皆を守りたいと思う心だ。




巴衛、悪羅王、夜鳥は、「器」に囚われてそこに宿る心(本質)を見ていないものの象徴


人間を虫けら扱いする巴衛、悪羅王、夜鳥は、いわば「器」に囚われてそこに宿る心(本質)を見ていないものの象徴なのだ。

霧仁も体(器)に拘っていたけれど、最後に彼は手放すのだ。自分も人間になって、彼は「器」ではなく「本質」が大事だとわかったから。

「俺は俺だ」
だから、彼は最後、母を守りたいという「心」を優先した。故に彼はその後、物語の神たる作者により救済されたのだろう。

そもそも、心の中にすむものの姿を借り、会うたびに違う見た目で登場するイザナミの存在自体が、「本質」をみよ、ということ。

だから、彼女は「本質」をみない巴衛がそのまま「器」だけ人間になろうというのは気に入らないのだ。人間を愛するという課題をイザナミが出した象徴的な意味はそこにある。

人間を愛さない=器重視で心をみない=物事の本質を視ていない、ということ

「人間を愛する」というのは、

汝、万人を愛せよ、ということではない。

儚い身体でもそこに宿る心をみなさい、

ひいては、「器」に囚われず、物事の「本質」をみなさい

「心」を大事にしなさい

ということなのだ。

だからこそ、巴衛は、あの場で霧仁がその身を投げうって、母を守ったシーンをみて、心揺さぶられる。何よりも器にこだわっていたはずの悪羅王が、器ではなく心をとったから。



十二鳥居は物語全体の縮約版


振り返ると巴衛の努力はことごとくずれている。しかし、大好きな奈々生の笑顔がみたくて、彼なりに一生懸命頑張っているのだ。ごはんを作って食べさせることも、人間になろうとすることも、そのために勉強することも、なにもかも。彼のそれまでの価値観で理解できる範囲でしてあげられる、精一杯の努力だったんだろう。そう思うとやっぱりかわいいキツネ様だ。

だからやっぱり本作品のテーマは「十二鳥居」に還るのだ。キツネ様が、可愛い奈々生を「笑わせる」、つまり、「幸せにする」ために、いろいろ物をだしたり努力するけれど、最後に何が大切なのか気が付いて、素直な気持ちを伝え、「心」を寄せる。

十二鳥居は物語全体の縮約版だったのだ。



続きの記事

「神様はじめました」考察 物の本質をみるということ③「俺の中の奈々生」とは 物語における十二鳥居エピソードの位置づけ(第11巻、第24巻第139話を中心に)