2020年9月4日金曜日

「神様はじめました」考察 物の本質をみる(6) 「愛情表現に抜かりはない」 本質をみていない事例と「自力で思い至ること」の大切さ

本記事は、「神様はじめました」(鈴木ジュリエッタ)の考察記事です。

作品の内容に関する感想を記載するという記事の特性上、ネタバレを含みますので、ご注意ください。



※ あくまで個人の感想です。


今回の考察内容


今回は、本編の中で「巴衛がやらかしてしまった事例」をもとに、「物の本質をみる」ということがどういうことか、帰納的に考えてみたいと思う。

一口に「物の本質をみる」と言っても、その中身は、案外多義的なのだ。


  • 行為の本質=どのような想いでされたのかを考える
  • 言葉の真意を理解する
  • 人を見た目で判断しない
  • 相手の心に寄り添う


やはり根本的には、自分で考え、自力で思い至ることが大切なのだ。



巴衛がものの本質をみなかった数々の事例


【行為の本質を理解していない事例】

奈々生に過去に笹餅を食べさせてもらったので、「食べさせる」
奈々生にかんざしをもらって結婚の約束をしたから、「作り直して渡す」

いずれも行為の「本質」、込められた「心」をとらえていないのだ。奈々生が笹餅を食べさせたのは怪我をした巴衛に元気になってほしいからであって、食べさせる=愛情ではないのだが、その行為のベースとなる心を理解していないから早とちりする。

奈々生が過去の巴衛にかんざしをあげたのも、その時の巴衛に何か残してあげたいと思ったからだ。かんざしをあげる=結婚の申し出、ではない。

奈々生が嬉しそうに巴衛のごはんを食べるのは、手をかけ時間をかけ自分の為に作ってくれた巴衛の「心」が嬉しいのだ。


【見た目に囚われている事例】

易者に指摘(11巻)・・・奈々生の寝間着姿(外観)に囚われているから、奈々生の神としての成長を見極められない。⇔奈々生ちゃんは強くなったよ、と言うみずきと対照的

沖縄の少女が巫女だとわからない・・・少女の姿という外観に囚われているから。

【器に囚われている事例】

人間を虫けら扱いし、そこに宿る心を軽視している

ヒロインが誰か見分けられない・・・「目」(見た目)を重視しているから。雪路と奈々生では明らかに言動が異なるのに本質をみていない

小さい奈々生を見逃す(11巻)・・・外観に囚われているから。

ガマ子を見破れない(13巻)・・・器が奈々生だから。

霧仁の正体を見破れない(19巻)・・・器が悪羅王でないから。

【言葉の真意を理解できない事例】

沖縄の巫女のメッセージを取り違えて人間になることが奈々生を幸せにすると思い込む(20巻)・・・巫女の老化に目を奪われたから。言葉の意味を理解しようとしていないから。

【ヒロインの心に寄り添わない事例】

以下は、ライトに描かれているが、ヒロインの心を軽視した行動の数々だ。

  1. 最初の告白を振るときに抱えてビルの屋上を歩く、(過ったとはいえ)落とす(4巻)
  2. ガマ子の魂が入っているときに「おもちゃ」にする(13巻)
  3. 意思に反して押し倒す(16巻、18巻)
  4. 問答無用で部屋に置き去りにする(19巻)
  5. 待ってほしいという心からの言葉を無視して進化の水を一気飲み(20巻)


散々描かれてきたが、巴衛は、物の本質をみていないし、「心」を軽視している。

だから、「俺はいつも素直だ 愛情表現に抜かりはない」と思う巴衛は、奈々生とかみ合わないのだ。
第19巻



続きの記事
「神様はじめました」考察 物の本質をみる⑦ 巴衛と奈々生の関係性の本質とは


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