2020年9月23日水曜日

「神様はじめました」考察 「その先にいるのは巴衛」 奈々生のテーマ 巴衛と生きていくために理解しなければならないこと

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。 
※ 単なる個人による感想・考察です。 
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。




今回の考察内容


本作では、巴衛、霧仁、夜鳥の3人を通じて、いろんな切り口で、自己肯定、自己否定が描かれている。メタ的には、「大人になる」ことを描いている。

そして、実はヒロインの奈々生についても、「自分を捨てない」という課題があったのだということを書いてみたい。


奈々生のテーマ:「その先にいるのは巴衛」(第24巻第138話)


巴衛を心配して火の山へのぼる奈々生のモノローグについても、長らく意味をはかりかねていた。

いつも私は巴衛を捜してる 
私の命 結果的に霧仁に預けた形になったけど 元気だけがとりえの私が あの時は本気で未来が見えなくなった
悲しかったことも 辛かったことも 今思えば 宝物のようだった
炎の中導いてくれるこの光みたいに 何もかもが糧になって今私をここに立たせてくれた
光の方へ進むために理解しないといけないことをわからせてくれた
その先にいるのは巴衛
私が辿り着くのはいつも巴衛のいるところだよ
(第24巻第138話)

これは、鞍馬山再訪時に、奈々生が自分の心と向き合い、自分の心の中の神様が巴衛であることを再確認したことを指す。

「いつも私は巴衛を捜してる」というのは、鳴神編で巴衛を捜し回り、手を差し伸べたときから、物語全般における奈々生の巴衛に対する向き合い方だ。物語の過程において奈々生にとっての巴衛の立ち位置も変わっていくが、どの段階でも奈々生にとって巴衛が大切な存在であったことを指す。

「光の方へ進むために理解しないといけないことをわからせてくれた その先にいるのは巴衛」というのは、つまり、奈々生のテーマが、巴衛と生きていくために理解しなければならないことをわかることということだ。

そして、鞍馬山での自覚を振り返っていることから、寿命問題を通じて理解したことをいうのだろう。

それはつまり、他人を優先し、自分の願いを差し置いていた奈々生が、巴衛と一緒にいたいという、自分の願いを再確認するプロセスであった。


命がけの人助け

一見能天気なキャラクターとして登場する奈々生だが、作中全般を通して浮かび上がる彼女の本質は、真面目で優しい、思いやりのある女の子だ。

彼女は生育環境もあってか、目の前に苦しんでいる人を助けたいという気持ちが強かった。
だから時には無茶をしたり、自己犠牲をしていた。

神様になって、助けられる能力がUPしたというのも大きいと思う。できることがあるならやらずにはいられないというのは彼女の誠実さの表れだろう。時に能力の限界以上のことまで手を出してしまう。それが「命がけの人助け」。

でも、巴衛と生きていく人生を選ぶなら、それではいけないのだ。死んでしまったら何もならない。

彼女も頭のどこかで理解はしていたと思うのだ。

「今の私のキャパを考えれば少なくて良かった 一人一人大事に扱える きちんと一人一人の神様ができる」(第8巻第46話)

でも、いい子だから頑張ってしまう。
それが後半に決定的なダメージをくらうことになる。

「いいひとってのは長生きできないんだよね」(9巻51話)

夜鳥の言葉は直接的には霧仁に向けられたものだけど、俯瞰すれば、物語のメッセージだ。
自分の限界以上に人助けするとはつまり、自分より他人を優先することだ。それもまた自分をいわば捨てることに他ならない。

巴衛と「一緒に生きたい」という自分の願いに素直になるなら、命まで捨ててはいけないのだ。


「無理をしない」(第22巻第129話、第25巻第146話)


巴衛に会いたいという気持ちを優先することにした彼女は、もうキャパを大幅に超える無理をすることをやめるのだ。

イザナミとのかくれんぼの最中に体調不良となって休む姿は、まさに彼女の変化を示している。

第22巻第129話


また、第25巻第146話では、結婚式の招待状を受け取る香夜子が登場するのだが、彼女はその直前に以下の台詞を言っている。

「もう無理せえへんわ 体を労わることにしたの」「自分を大事にせんかったら他人を大事にはできんからなあ」(第25巻第146話)

直接的には香夜子自身へ向けた台詞だが、俯瞰すれば、これこそまさに作中で奈々生が向き合ったテーマであり、時に頑張って無理をしがちな、ちょっと真面目な女の子たちへ向けた、作者からのメッセージではないだろうか。


第25巻最終話には、保育園の先生になった奈々生の姿が描かれている。

奈々生が保育士を志したのも、彼女の生育環境からして、寂しい子どもたちに寄り添いたいという気持ちからだと思う。

しかし、奈々生は、妊娠・出産を機に一旦退職して離れるのだ。それは、「無理をしない」という彼女の選択の結果なのである。

実際、子育てをサポートしてくれる実家もないし、初めての子育てはそれ自体大変だから。
しかし、彼女は自分の夢をあきらめたわけではない。一旦離れても、いつかまたできるから。実際、神社で託児所を開くのが次の目標である。

奈々生は、まさに、次のステップに進むための選択をしたのだ。

そういう思い切った選択ができるようになったこと自体が、まさに彼女が「強くなった」ということなのだ。



「壊れたら元に戻らない」


奈々生が困った人に手を差し伸べたくなるのは、「失ったら怖い」「壊れたら元に戻らない」という気持ちもあるだろう。

実際、彼女は幼い頃にお母さんを喪失しているから(第11巻)。小さくて非力だった自分がお母さんを助けてあげられなかったという想いは、どこかに残っているのだろう。記憶は忘れてもそこにあった想いは残るから。


でも、そういう怖さと向き合いつつも、自分の優先順位を変えないことが大切なのだ。今を生きるために。

それがひいては自分を大事にすることになるし、大切な人=巴衛や子どもと一緒に生きていく上で必要なことなのだ。

選択するのも怖いけれど、彼女はそれを乗り越えた。だから「強くなった」。



弱い自分と向き合う


奈々生の立ち位置の難しさは、彼女の周りは人外ばかりで、皆「器」も強いことである。人間なら無理なことも易々とやってのけてしまうのだ。

  1. ミカゲ様が社を離れて20年も家出する
  2. 瑞希のウナリ救済
これはいずれも、人外だからできるのだ。
同じことを奈々生がやろうと思ったら命が幾つあっても足りない
だから結局は「弱い自分」、「自分の限界」を受け入れるということも必要なのだ。
そのうえで、できることを精一杯やると。



「瑞希を安心させるぐらい私がずっと強くなったら」(第25巻最終話)


第25巻最終話

「瑞希を安心させるぐらい私がずっと強くなったらその時に」(第25巻最終話)

瑞希が安心できるようになった時が帰還の時だと奈々生は決めた。それでは、瑞希は何を心配していたのだろうか?

何度も繰り返し描かれてきたように、奈々生は時として自分の願いを差し置いてでも、他の人のために、自分を犠牲にする。

私欲を捨てて目の前の他者を救済する。そんな人助けは、寿命の限られた脆い人間の奈々生には続けられない。

そもそも、瑞希が神使になったきっかけを思い出してみよう。龍王篇(第4巻第23話)で、奈々生は、巴衛が好きな気持ちを抑えて雪路を助けたり、助けとなる神使もいない状況下で、磯姫に寿命と引き換えに取引する。

瑞希は、その都度、奈々生を心配して止めに入るのだが、奈々生は迷わず自己犠牲を払ってしまう。そんな奈々生を助けるために、瑞希は神使になったのだ。

「巴衛君は自業自得 君が肩代わりする必要なんかなかったのに 本当に奈々生ちゃんは 僕なんかじゃ及びもつかない」 
(手足になる神使もいず 人の身で 誰かを守ろうというのなら もう一度お仕えしよう)  
(第4巻)


瑞希自身、奈々生が寿命の限られた人間であり、いずれ別れが訪れることはおそらく当初から頭のどこかで理解していたに違いない。しかし、それでも、奈々生を心配して神使になったのは瑞希の優しさだ。

「瑞希を安心させるくらい」とはつまり、あの龍王篇の時のような、時として自らを犠牲にしてでも人を助けようとする行き過ぎた優しさ、自らの生を軽んじる奈々生自身の弱さを克服するということだと思う。

奈々生は、再びミカゲ社に帰るための課題として、自分の弱さを克服し、強くなることを課したのだ。思えば、これは巴衛と結ばれる「その時」まで課題を克服し続けた彼女の姿と重なる。

人に頼ることを知り、無理をしない、自分を大切にする。

そのために10年という月日が必要だったのだろう。

職を得て働いた8年間を通じて、彼女は経済的に自立したばかりでなく、精神的にも変わったのだろう。自信とスキルを身につけ、将来的には神社で託児所を開きたいという新たな目標もできた。子どもが生まれ、人の子の親となった彼女は、わが子を守るためにも、かつてよりもっと自分を大切にするだろう。誰かに頼ることももっとうまくなっているかもしれない。


10年間の別離や、戻ってきたタイミングにはそのような意味があったのではないかと考えている。



奈々生、瑞希、巴衛の関係性について


奈々生が「強くなる」のは、巴衛と一緒に生きていく為でもあり、将来的にミカゲ社に戻ること、つまり、瑞希と再会する為でもある。

そしてそんな彼女のあり方を、あの巴衛も受け入れているのだ。嫉妬深くて独占欲の塊だった若き日の彼の姿からは想像もつかない成長ぶり。

私は、この三人の関係性に、「人本位」では例えきれない複雑さと尊さを感じている。

瑞希と奈々生の間にあるのは男女の恋愛ではなくて、本質的な近さ、魂の同質性である。瑞希の立ち回りも踏まえると、人本位に例えるならば、兄と妹のような関係だ。そんな存在を受け入れられるようになった巴衛の成長も嬉しい。