2020年9月22日火曜日

『進撃の巨人』考察「今日はダメでもいつの日か」進撃の巨人第132話を受けた作品のテーマと今後の展開についての考察 「理解することをあきらめない姿勢」

本記事は、『進撃の巨人』(諫山創著、講談社)の感想記事です。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『進撃の巨人』(諫山創著、講談社)より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。

今回は、『進撃の巨人』第132話「自由の翼」を受けた作品のテーマと今後の展開についての考察です。


「見えている物と実在する物の本質」

「私たちが見えている物と実在する物の本質は・・・全然違うんじゃないかってね」


このハンジさんの台詞は、巨人の正体が人間だということで回収されたと理解してよいのだろうか?

巨人の正体が人間であること以上に、何か含意されているような気がするのだ。

ハンジさんのこの台詞が、改めて回収される日が来る。そこに作品のテーマが体現されるに違いない。


「自由の翼」(第132話)


現在の始祖の巨人の姿は「鳥籠」のようで、エレンが閉じ込められていることを暗喩しているように思う。

「自由」という概念に囚われていることこそ不自由なのではないだろうか。

理解することを諦めない心、探究心、既存概念に囚われない発想力。

物理的には「壁」の中でも、ハンジさんの心は自由だった。

「自由」の本質は、物理的に解放されていることではなく、精神の解放にあるのではないだろうか。

だからこそ、かつて子どものエレンはアルミンの目を見て、自分が不自由であることを認識したのではないだろうか。

かつて進撃の巨人に取り込まれたエレンの精神が、少年時代に囚われて暴走した時に、アルミンがエレンを解放したように、アルミンが再びエレンの精神を解放する時が来る

それが「世界を救う」こと。

おそらくその過程においてエレンの肉体は滅びるだろうが、彼の心は最後に自由になれるのだ。

そもそも「自由の翼」のマークが調査兵団を表すということは諫山先生の考える自由がそこにあるのだろう。

探究心、好奇心の赴くままに飛び回るハンジさんのあり方自体が、まさに「自由の翼」を体現していたということだ。

ハンジさんの過去については、掘り下げられることがなかった。彼女の家族も調査兵団に入った事情も。

ハンジさんは、何も背負うものを感じさせなかった。ハンジさんの心の自由さを示すものだ。

アルミンはかつて「何かを変えることのできる人間は」「大事なものを捨てることができる人だ」と言ったけれど、それもまた精神の自由さを表現するものだ。

サシャの父が言い、ニコロが言った、命の奪い合いを続ける巨大な森から出ること、出られなくても出ようとし続けること。それもまた、憎しみや衝突から解放されること、困難でも努力し続けることをいうものだ。これもまた、精神の解放である。

「調査兵団団長に求められる資質は理解することをあきらめない姿勢にある」「 君以上の適任はいない 皆を頼んだよ」(第132話)

過去の遺恨や現在の憎しみに囚われず、理解することをあきらめないで、世界と歩み寄ろうとしていたハンジさんの生き方こそ、彼女の心の自由さを体現していたのだろう



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上記を踏まえて振り返ると、父親を死に追いやった過去を背負うエルヴィンも不自由だった。彼が地下室に行きたがっていたのも、父親に対する想いに囚われていたからだ。しかし、彼は、最後に解放されるのだ。リヴァイの言葉によって。だから「ありがとう」と言って、調査兵団の団長として死地に向かっていったのだ。

エルヴィンとの約束に囚われているリヴァイも不自由だ。彼も、獣の巨人を倒すということから解放されるのではないだろうか。おそらく、リヴァイに残された最後の役割は、調査兵団の「子どもたち」をエレンの「心」へ届けるものとなるだろう。

そして、「未来の記憶」に囚われて理解し合うことを諦めたエレンも不自由なのだ。

多分アルミンはあの「道」でエレンと「話し合う」筈だ。だって理解し合うにはまず話し合うことから始まるから。



親による精神性の束縛からの解放

エレンの次に「進撃の巨人」を継承する者はもういないと思う。130話の記憶の断片は大地か自然か、とにかく人ならぬものが見たものだろう。

そもそも、巨人を継承し続け、「道」で繋がること自体が精神の束縛だ。あの「道を壊す」ことが精神の解放だろう。巨人を継承すると13年で死んでしまう。継承しなくても巨人化能力があるということで世界中から忌み嫌われ迫害される。まさに「呪い」ではないか。そんなもの、やめてしまえばいいのだ。巨人の力を捨ててしまえばいいのだ。それが「道を壊す」ことなのだ。

その意味では「ユミルの民」は居なくなる。

「ユミルの民」と「エルディア人」という二つの言葉があることからも、ユミルの民は単なる種族の名称ではない筈だ。

母なる始祖ユミルによる精神性の束縛から解放されることが「ユミルの民」に真の自由をもたらす。巨人の力を失ったことにより、結果的に、エルディア人という種族も滅んでしまうかもしれない。しかし、彼らの精神は解放されるのだ。

形だけみればバッドエンドだけど本質的にはハッピーエンド。そんな終わり方にするのではないだろうか。

そもそも、巨人化も結局「意思」に基づくものなのだ。体に傷がついただけでは、巨人になることはできない。「目的」意識が必要なのだ。そして、生きようとする意思がないと再生もされない。

本質的には巨人という存在自体が精神の上に成り立つもの。ユミルの民が道で繋がっているのも精神性のものだろう。

物語で使われているファンタジー要素を捨象してみた場合に、本作品の根底に流れるテーマは「親からの解放」なのではなかろうか。

親による精神性の束縛からの解放。

ヒストリア、ジーク、ライナー……繰り返し描かれている。

だから、最後の本丸は母なる始祖ユミルからの精神の解放に違いない。


「お前は自由だ」

「お前は自由だ」という最終話のイメージ画に記載された台詞は、グリシャからエレンへ向けられた台詞だろう。

「自由であってほしい」という言葉自体がグリシャによる束縛であった。

カルラのように居てくれるだけでいいと感じれたら良かったのだ。

「愛すること」の本質はそういうことではないだろうか。

グリシャは今度こそ失敗しないようにと思ってまさに「愛」を示すためにかけた言葉だったと思う。でも本質的には違ってた。

エレンは生まれた時から自由を希求してきたと思ってるけど多分違う。彼が生まれた時にグリシャがかけた言葉に束縛されていたのだ。

そんな真実が最後に判明するのではないだろうか。


「本質」を見る


『進撃の巨人』は、仲間、信頼、夢など、良いものとされている既存の概念を悉く再定義していく物語ともいえる。

つまりは「本質」をみよう、ということなのだ。

直近のエピソードであれば、キース・シャーディス教官の人生とその最期だ。「特別」になることの本質を描いたものだ。

特別になろうとしたから「特別」になるわけじゃない

「普通の人」が頑張った行為を後世の人が「特別」だったと意味づけるだけなのだ。

ジークの安楽死計画もその意味では本質をみないものである。

ジークはおそらくその描かれ方として救世主として登場している。しかし、エルディア人をゆっくり安楽死させても、滅亡の日まで、ユミルの民の精神が束縛されていることには変わりない。ユミルの民の「心の救済」にはならないのだ。

すなわち、「救世主」という概念についても、その本質を視よという作者のメッセージに違いない。


「家」「壁」「道」は親の庇護と束縛の象徴


そもそも、「家」、「壁」、「道」は何なのか?

見えている物と実在する物の本質に疑問を持とう、というハンジさんの言葉を思い出そう。

「家」は、子どもにとっては、外界から守ってくれるものだ。

しかし、大人になるためには、親の庇護を離れ、親の束縛から解放されなければならないのだ。

すなわち、「家」、「壁」、「道」は、各成長段階における保護者による庇護と束縛の象徴であり、それぞれの破壊は庇護者から解放され真に精神的に自由となる為、いわば「大人」になる為の通過儀礼なのだ

家:子どものエレン

保護者:両親
外敵から守ってくれる
しかし、エレンが調査兵団に入ることを留め、探究心を抑制するものである。

壁:少年エレン

保護者:壁の王
世界がパラディ島へ侵攻することを防ぎ、守ってくれる
しかし、エレン及びパラディ島の住民を壁の中に閉じ込めるものである。

道:青年エレン

保護者:始祖ユミル
巨人を作り出し、パラディ島の外の敵から守ってくれる。地ならしはその一環。
しかし、エレン及び全てのユミルの民の精神を束縛し、「ユミルの民」の運命の連鎖に閉じ込めるものである。

かつて、「家」の幻影に囚われ、自分を見失ったエレンを解放したように、再びアルミンがエレンを「道」から解放するときが来るだろう。

そのとき、エレンの精神は真に自由となるのである。


いかに自分らしく生きるか

始祖ユミルによる精神の束縛からユミルの民を救済するには、やはり、「道」そのものを壊すしかない。

「道」を破壊する結果として、巨人化能力を失った島の民は世界から攻撃されるかもしれない。でも精神は自由だ。

話し合おう、理解し合おうとして手を差し伸べ続ければ、今日は駄目でもいつかわかり合える日が来るかもしれない。

多分、第132話でハンジさんが絞り出した言葉に収斂されるのだ。

「今日はダメでも…いつの日か…って」(第132話)

一見破滅的だけど、自由に生きるってそういうことじゃないだろうか。

圧倒的絶望と無力感を前提とした生命讃歌がそこにある。

ハンジさんの苗字のゾエが「生きる」という意味なのも、そういうことだ。

主要登場人物まであたかも虫けらのごとくどんどん死亡退場していく『進撃の巨人』だけど、それもまさに外側と本質で、そこに描かれているテーマは

「いかに自分らしく生きるか」

ということなのだ。

調査兵団のユミルがヒストリアに伝えたかったこともまさにそうではないか。「胸を張って生きろ」というのはそういうことだ。


始祖ユミルの解放とは

始祖ユミルが「自由」を望んだからと言って「世界を滅ぼす」ことまで彼女が望んでいたのかは不明だ。

いずれにしても、物理的には強大な力を手にした始祖ユミルが王家に隷従し続けたのは、まさに精神性の問題だ。

心が囚われていたから逃げ出せなかったのだ。

ユミルの姿が死亡時の「大人の女性」の姿ではなく、「少女」の姿であるのも、まさに彼女の精神自体が何者かに囚われていることの証左である。

エレンは、始祖ユミルを解放してあげるなら、「一緒に世界を滅ぼそう」のではなく、「お前はもう巨人を作らないでいいよ」と言ってあげれば良かったのだ。

現に今も彼女の一部は「道」で土をコネて巨人を作っているのである。世界を滅ぼしても、巨人化能力に頼る限り、ユミルの心が不自由であることには変わりはないのだ

もしかするとアルミンがそう言ってあげるのかもしれない。

「君はもう巨人を作らないでいいよ」と。

おそらく、アルミンは、巨人化能力及びユミルの民の心を繋ぐ「道」を捨てる決断をする。

まさに「何かを変えるために」「大事なものを捨てる」決断だ。

最終的には、あの超大型巨人たちが一斉に崩れて大地に還るか、通常の巨人たちの最後のように、蒸気になって霧散し大気に還るのだろう。


ハンジさんの果たした役目とは


ハンジさんの物語における役割とは、心の自由さを体現すること。

そして、調査兵団の「子どもたち」や読者に対し、外面に囚われず物の本質をみるよう教えることなのだ。

パラディ島の4年間は、まさに、解決できない難題を前に、ハンジさんにとっては苦悩の4年間だったと思う。それでも彼女は理解することを諦めなかった。解決策を提示できたわけではないけれど、ハンジさんの心は過去の遺恨からも現在の憎しみからも自由だったのだ。

異国の民であるオニャンコポンの心をつかみ、飛行艇を乗り回したのも、マーレから来た人たちの力を借りて鉄道を敷いたのも、最後にマガトやピークたちと協働できたのも、全部、彼女の「心が自由」だったからなのだ。

そして、物理的自由に囚われたエレンを、精神の自由のためにアルミンが解放するという物語の展開のために、アルミンにその遺志を繋げることが、ハンジさんの最期に果たした役目だった

言うなれば、アルミンを最後の調査兵団団長にするために、ハンジさんは死亡退場させられたのだ。つまり、調査兵団団長に任命された時点で、将来におけるハンジさんの死亡退場は確定事項である。言ってしまえば、エルヴィンの死亡退場もそうだ。


進撃の巨人第132話


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今回は、第132話におけるハンジさんの死亡退場が、思いのほか自分の中で衝撃的で、想うことがいろいろあり、自分なりに消化するためにまとめた。

それにしても、「自由の翼」を体現していたハンジさんは、本当に飛び立ってしまった。

なんて悲しいんだろう。

これほどまでに悲しいからこそ、改めてこの作品に向き合い、彼女の遺したメッセージを考えることになった。

おそらく、今後、本作中で他のキャラクターが死亡退場しても、ここまで私の心は揺さぶられない。