2020年9月8日火曜日

「神様はじめました」考察 物の本質をみる(9) 「巴衛が私ではなく君の手をとるように」 最終話とミカゲ社を出た意味【10月12日更新】

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



「巴衛が私ではなく君の手をとるように」とは


「私は巴衛と人との縁を結び直してあげたい 巴衛が私ではなく君の手を取るように 巴衛に君を選ばせてあげたいんだ」(第8巻)

上記ミカゲの台詞は、単に過去編終盤でのことを指すのではなく、物語全般を指す。後述のとおり、巴衛が最後にミカゲ社を出るのも「奈々生の手を取る」プロセスの一環である。

物語全般を通して、奈々生は巴衛を思いやり、巴衛を捜し回り、非力でも周りの助け(ご縁)を得ながら奮闘し、手を差し伸べる。それが決定的かつ象徴的に、二人の関係性が変化するごとに描かれるのが、鳴神編、過去編、悪羅王・夜鳥編である。

節目ごとに「奈々生の手を取ること」を巴衛目線で整理すると、以下のとおりに解せられる。

鳴神編で懐鏡から出て奈々生の手を取る
奈々生=神使として仕えるべき神様。
⇒ 「ミカゲの神使」から「奈々生の神使」となることを認めた(鳴神編ラスト)

過去編で懐鏡から出て奈々生の手を取る
奈々生=500年前からの想い人(過去編ラスト)。恋人。「花」
⇒ 奈々生を「雪路」ではなく「奈々生」と呼ぶ(過去編ラスト)

悪羅王・夜鳥編の最終決戦場の火の山で奈々生の手を取る
奈々生=自分の心の神様。「星」
⇒ 「ずっと一緒にいる約束」を「神と神使の契約」から「結婚」へアップデート。ミカゲ社を出る。(最終話)

※ 過去編のポイントは、キスではなく、奈々生を「雪路」ではなく「奈々生」と呼ぶことにある。巴衛が500年前の恋人が「雪路」ではなく「奈々生」だと認識し、巴衛の心の中で
奈々生の位置づけが、「現代で出会って愛した女性」から「500年前に出会って愛した女性」に再定義されたということである。一気に500年分の想いが追加されたということでもある。

※ 最終決戦で夜鳥・黒麿組の気色の悪い「手」が出てくるが、それは巴衛が最後に誰の手をとるかを示すためのモチーフでもある。

いうなれば、本編は、「ミカゲ様による巴衛と人との縁結びの物語」でもあった。

なお、ミカゲは、鳴神編、過去編、悪羅王・夜鳥編にてそれぞれ巴衛・奈々生の「背中を押している」。
第24巻

ミカゲ社を出た象徴的意味


巴衛が真の意味でミカゲから自立し、奈々生の手をとったことの表れ。

過去編終盤、巴衛はミカゲの懐鏡から出て奈々生の手をとった(第17巻第100話)が、そのときは「心の神様」なるものを理解していなかったので、物理的に手をとっただけであった。それは、その後の二人の微妙な反応とかみ合わなさからも明らかである(第101話)。

それは、巴衛が心理的にはミカゲに依存していたからだ。例えば、第100話で奈々生と再会し、想いが通じたはずなのに(「奈々生」と呼ぶ)、続く第101話では、まだ確信がもてず、ミカゲの説明をきき、奈々生の見た目を判断してようやく確信している。ミカゲが正しいという台詞もある。そもそも、「神使」としてミカゲ社に残り続けたこと自体が、ミカゲに対する心理的依存の表れである。

巴衛が「自分の神様が奈々生であること」の「本質」を理解し、最終的に、心から「奈々生の手を取った」といえるのが、夜鳥編最後の火の山のときである(第24巻)。
(詳しくは、「神様はじめました」考察 物の本質をみる③「俺の中の奈々生」とは 「神漫画」であることの意味「神様はじめました」考察 夜鳥の企み② 巴衛と夜鳥の最後の闘いの意味するものは

2人でミカゲ社を出る象徴的意味はそこにある。

元はと言えば、巴衛はミカゲの手を取って、つまり、ミカゲを「神(よりどころ)」にしてミカゲ社にきたのだから。
第24巻

鳴神編、過去編、夜鳥編、物語全般を通じて、奈々生は巴衛を捜し回り、周囲の助けを得ながら手を差し伸べ続けた。巴衛はその都度手を取り続け、最終的に真の意味で奈々生の手をとったのが火の山のシーンだった。



ミカゲ社を出る物語上の意味


巴衛が人の心を理解するため

ミカゲ社にいると人外ばかりでそれこそ箱入りになってしまうから、出て人の輪に入らないと人の心は学べないということだろう。

奈々生が瑞希に別れを告げる際、「ミカゲ社にいると楽しいよ 時間が止まったみたいで現実を忘れそうになる」と表現していた(第24巻第142話)が、それは巴衛にそっくりそのまま当てはまる。

多分巴衛が瑞希を「温室育ち」と呼んだ(第3巻第16話)のもブーメランで、実は巴衛こそ箱入りだったのだ。

なにしろ巴衛は500年間もミカゲ社にて「神使」の職にありながら、「神寄り」にならなかったのだ(沖縄の巫女回参照)。必要なのはOJTだ。

だから、25巻で巴衛に対して、瑞希が送った言葉に、奈々生ちゃんを「つれていく」というワードが出る。奈々生が「出て行く」というよりは本当に巴衛側の動機が大きいから。

「僕・・・巴衛くんのこと好きだよ だから奈々生ちゃんをつれていってしまうのが君で良かった」(第25巻第147話)

割りを食ったのは瑞希だ。巴衛は、瑞希の「神様=大切な存在」たる奈々生を連れ去ってしまったのだから。でも奈々生の幸せを願い、巴衛くんが好きだからと言って譲ってあげるのだ。

ミカゲ社に戻ってきた意味


戻ってきたのは、奈々生が戻りたかったからだろう。
ミカゲ社はまさに「実家」なのだ。結婚前夜にミカゲと話す奈々生の姿は、まさに父に別れを告げる娘の姿そのものである。
そして、一連の描写から明白であるが、やはり、何よりも奈々生は瑞希と離れがたかったのだろう。ほぼ全般において奈々生の「心」をずっと支えてくれたのは瑞希なのだから。

巴衛が瑞希をライバル視していたのは、単に神使としてどっちが優秀かとか、そういうことではない。黄泉での描写までみると、特にわかりやすいが、奈々生が「心」の面で頼りにしていたのは瑞希だったのだ。奈々生の心に寄り添い続けた瑞希こそ、神寄り=神様に近いのだ。「奈々生ちゃんの第一神使ですからー」と事あるごとに言っていたのはネタではない。

巴衛は人間になって「人の輪」に入り、心も情緒も豊かになり、心の神様にますます近づいた。「人になって奈々生のことがずっとわかるようになってきた」(第25巻最終話)という台詞の真意はそれだ。

10年間で、おそらく、心の中の大切な存在も増えたのだ。故に、孤独じゃない。幸せと言ったのはそういうこと(25.5巻)

判断に迷った時でも誰の手を取るか迷わない=自分を見失わない=強くなった


25.5巻の後日談で描かれた奈々生と巴衛の雰囲気が本編とちょっと違うのは、巴衛が心も見た目に見合った分だけ成長して、頼れる男になったからだ。奈々生の言外の不安も察知できるほど心が成長し、社に帰る準備が整った。

「人と交わり人を知って自分を知って成長して大人になって自分の道にたどりつく」という奈々生のモノローグ(最終話)は、巴衛の心の成長を指す。

よって、物語の最終結果として、一番得したのは巴衛なのだ。

人間になって大好きな奈々生をお嫁にもらい、その後人の輪に入って心も情緒も豊かになり、ますます心の中の神様に近づくことができたのだから。

しかし、彼自身も、妖力、寿命その他手放したものも大きいのだから、それでよいのだろう。


続きの記事
「神様はじめました」考察 物の本質をみる⑩ 「奈々生ちゃんの第一神使」 巴衛・奈々生・瑞希のキャラクターと関係性の本質とは


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