2020年9月2日水曜日

「神様はじめました」考察 霧仁を救ったのは誰か? 霧仁は奈々生を好きだったのか?

本記事は、「神様はじめました」(鈴木ジュリエッタ)の考察記事です。

作品の内容に関する感想を記載するという記事の特性上、ネタバレを含みますので、ご注意ください。




霧仁を救ったのは誰か?



黄泉に落ちた奈々生と霧仁。イザナミに閉じ込められた霧仁を奈々生が救いに行く。「どうして助けに来た」と尋ねる霧仁に、奈々生は「助けるのに理由なんていらないけど」ときょとんとした顔で答える。

そんなやり取りをしながら霧仁(悪羅王)は思うのだった。

「まったく人間ってのは理解できない」「馬鹿な生き物だな…」(第8巻第44話)
このときの霧仁のモノローグは、霧仁の最期につながるロングパスであった。霧仁が母の亜子をかばうときに霧仁は、「そういえば人間は馬鹿な生き物だったと思いだした」(第23巻第134話)と思うのだ。


また、同じく第8巻の黄泉の国で、イザナミはこのように独白していた。

「奈々生そなた本当に人一人救えるかのう」(第8巻第45話)

これは、直接的には霧仁と一緒に黄泉から地上へ脱出することを指す。が、俯瞰的には、奈々生が霧仁の孤独な心を救うことを指すのだ。

その後も、本作では、奈々生が、暗闇に閉じ込められ、孤独にもがき苦しむ霧仁に光をもたらし、人の温かさを与えたことが繰り返し描かれている(第107話、第131話)。


奈々生だけでなく、霧仁の母も同様に、暗闇にいた霧仁に光と温かさを与える存在であった。

霧仁の孤独を救ったのは、奈々生と母上の二人だけではない。心の中の「神様」=「替えのきかないもの」=「大事なもの」を知ったから救われたのだ。

霧仁=悪羅王は、不便な人間の体(器)に宿ってから、心の中の「神様」=「替えのきかないもの」=「大事なもの」を知る。大事な存在を思うだけで心が温まり、孤独ではなくなったのだ。

「結局 俺は妖怪に戻れなかったが人間の体も悪くはなかった 妖怪のままじゃわからなかったことがいろいろわかったしな」
「どうしてだ? 不便だとぼやいていたくせに お前は強い男だったではないか」
「そうだな」「俺は自分の体を取り戻したかった 不便な体を補うために 色々利用した 使えるものは慎重に扱って 使えないものも使えるように時間をかけた その内替えのきかないものが 増えたらしい 不便でなけりゃ知らなかったことだ」
(悪羅王・・・人を愛したのか お前も 愛せたのか)
「兄弟 お前に別れを告げられた時は寂しかったけど あの時のお前の気持ちがやっとわかったよ だからさ もう俺は独りじゃなくなったんだ お前や母上 式神達…今の俺の胸ん中には大事なものがたくさん息してんだよ」「胸がいっぱいなんだよ俺 わかるよなお前なら」
(温かく満たされる感覚 こんなに幸せなことはない)
(『神様はじめました』コミックス第23巻より)



霧仁は奈々生を好きだったのか?


霧仁の心の中の「神様」を描写するシーンで奈々生がそれなりに大きく描かれていることから、奈々生が彼にとって大切な存在になっていたことは疑いない。

それが恋愛感情まで育っていたのかは明らかでない。作中、霧仁自身が奈々生を好きだと言ったり自覚したシーンは一切なかったからだ。


ただし、巴衛のことを信じると言う奈々生に対して、出てきた霧仁の、
「どうしてお前の言葉がこんなに俺に突き刺さる?」
という台詞が気になる。

この霧仁の台詞は、「そんなことを言う巴衛は嫌!!」という奈々生の台詞を思い出して「よもやあんな一言がこんなにささるとは」という巴衛の独白(第16巻第93話)とオーバーラップする。


500年前に会って二人で都で遊んでいた時の様子、沖縄編で精気を吸いつくさず生かしておき布団もかけておいたこと、奈々生の寿命が短くなったことを気にかけていたこと、奈々生のことを「あの女は面白いな」(第23巻第135話)と評したことなど、諸々の描写をみると、霧仁は奈々生のことを気にいっていたことは間違いない。


出会い方が違っていたら、霧仁の奈々生に対する感情も恋愛感情まで育っていたかもしれない。

奈々生の呼び方の変化

ずっと「エリマキ女」、「クソ女」と奈々生を呼んでいた霧仁であったが、暗闇に沈む黄泉に光を再びもたらした奈々生を想い、ついに「奈々生」とつぶやくシーンがある。彼の心の変化を示すものだ。

まとめ


出雲・黄泉篇の、「人間てやつは馬鹿な生き物だな」という霧仁の言葉と、「奈々生そなた本当に人一人救えるかのう」というイザナミの言葉(第44〜45話)は、悪羅王・夜鳥編で霧仁が成仏する第134話へのロングパスであった。暗闇に居た霧仁に光と人の温かさを与えたのが母上と奈々生、その他、彼の見出した大切な存在だった。第107話、第131話は霧仁の救済までの途中経過として位置づけられる。