2020年9月8日火曜日

「神様はじめました」考察 物の本質をみる(10) 「奈々生ちゃんの第一神使」 巴衛・奈々生・瑞希のキャラクターと関係性の本質とは

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



巴衛・奈々生・瑞希。

三人の関係性をもう一度整理しているのだけれど、なかなか複雑だ。

これまでの考察では、奈々生と巴衛の関係性は奈々生が巴衛を思いやり、背負う関係、言うなれば、「姉弟関係」「保護者・被保護者関係」に近いと結論付けている。

恋愛にせよ、家族にせよ、やはり年長者に期待するものは、心の支え、よりどころ。まさに巴衛がミカゲに求めていたように。それが微塵もない相手(巴衛)でも好きというのは、逆に相手を「可愛い」「守りたい」と思っているという関係性でないと整理がつきにくい。「巴衛の心の成長」というテーマとも矛盾しない。

そもそも、奈々生と瑞希の方が、本質的に同類なのだ。見た目に囚われず、心に寄り添って目の前で苦しむ者を助けてあげる。それが正面から描かれたのがウナリ編。そして、奈々生の心に寄り添い支え続けてきた瑞希の方が、心の面では奈々生により近い。まさに神寄り。

神そのものであるミカゲの在り方をみてもそうだ。ミカゲや奈々生が巴衛に手を差し伸べ続けたのは、彼が「誰かを好きになることができる」者だからだろう。ミカゲは、彼の心の中に神様=大切な存在がいるのに気づいていないことを憐れんで助けてあげたのだ。それは過去編でのミカゲの発言や、過去について尋ねる奈々生がそんな巴衛だから私は好きになったんだよね、という発言をしていることからうかがわれる。こんなところからもミカゲと奈々生もまた同類=神様だ。

巴衛と奈々生は恋人同士であるのに、本質的に正反対であり、「心」の距離は遠い。

奈々生が「心」重視であり、見た目=器に囚われず、「食べものにつられて愛のない結婚はしない」という設定である以上、奈々生の巴衛に対する想いは、母性本能のような、保護者のようなものだと整理しないと成り立たない。

そして実際に本編の言動をみるに、精神的には、奈々生は巴衛の保護者的立場として行動している(「支えたい」「何かしてあげたい」「助けたい」)。巴衛は自らが心は子どもということに気づいていないので「背負われている」ことに苛立っており、隣に立ちたいと願っているのだ。


そして、巴衛の目標は「奈々生にお嫁に来てもらう」だが、奈々生の目標はもう少し広くて、「家族をつくること」であり、巴衛との恋愛もそのなかに包含されるものだったと考えられる。故に奈々生は最後に社に戻りたいと願うのだ。社の者たちも奈々生にとっては家族だから。巴衛との恋愛だけ優先であれば戻る必要もないのだから。


なお、本編中、巴衛や瑞希、ミカゲとの関係性を「家族」に例える言い方をしているのは奈々生だけである。巴衛、瑞希、ミカゲは肯定も否定もしない。「恋愛」という考え方自体が人間本位なのだ、とかつて巴衛は言ったが、おそらく「家族」に例える物の見方についても人間本位の考え方であり、人外の者たちからすると目線が違うのだろう

奈々生の立場に立って考えると、ミカゲ社に残る方が心理的には楽なのだ。心の面で支えてくれる瑞希の存在が大きい。人の輪に入って心の修行をするというのは奈々生にはさほど必要ないのであるし。それでも奈々生が巴衛についていってしまうのは、巴衛を支えたい、母性本能のようなものとしか説明しようがない。やはり本質をみれば巴衛を中心に周りのキャラクターたちが動いているのだ。

本編中、正面から回答はないのだが、本ブログの解釈によれば以下の通りに整理される。

物語の読み方


巴衛が自分の心を理解していないので巴衛がみている鏡を読者も見て巴衛の心を理解する。

巴衛


役割:本作品の物語のテーマ(巴衛の心の成長)の主役。

目標:奈々生にお嫁に来てもらう

スペック:強力な狐火を操る。
物質面は得意(家事全般、学校の勉強)。
器に囚われ、物の本質を視れない。「心」軽視。「言葉」軽視。

巴衛の心情や「神使」の在り方については、巴衛の台詞をあてにしてはならない。巴衛が「心」をわかっておらず「神寄り」でないから。

メッセージ性:
彼の在り方そのものが「器と本質」。
彼のビジュアルが麗しい美青年であるのも伏線である。
「神」「神寄り」の者たちが視る彼の本質は、「ちびっこ巴衛」あるいは「幼気な狐」である。

鏡をみて自分を理解するという神様ワールドの考え方からしても、巴衛の作中の姿は彼の本質を反転させた姿なのだろう。

奈々生


役割:本作品の物語の進行をけん引するメインキャラクター。

目標:「家族」をつくる。

スペック:
目の前で苦しんでいる人の心に寄り添い、手を差し伸べる。
ピュアな瞳(心眼=私欲を捨て物の本質を視る力)は乙比古神一押しで大国主も認めている。
白札、退魔結界

能天気に見えて、本当は心に弱い部分を抱えている。他人に頼らず生きてきた。

メッセージ性:
「神様」設定は巴衛の心の中の「大切な存在」ということの象徴でもある。
「心」を大事にする彼女の在り方そのものが「神様」あるいは「神様に近づこうとする人間のあり方」そのもの。
「家族」や「先祖」を大事にする考え方も、日本古来の神様を思う人間のあり様を体現している。

瑞希


役割:読者に「神」とはなにか、「神使」とは何かを教えてくれる存在。

目標:奈々生の「心」を支える。

スペック:「神寄り」の存在。私欲に囚われず、物事の本質をみる。
神酒づくり(ご利益あり)。

奈々生・瑞希の関係は、奈々生・巴衛の関係との対比でもあり、鏡でもある。


巴衛・奈々生の関係性


奈々生目線では、本編ではほぼずっと、姉弟のような、保護者・被保護者の関係。思いやる対象。奈々生は巴衛に手を差し伸べ続ける。巴衛を助けるためなら強くなれるというその原動力は母性本能に近い。巴衛には物資面はさておき、精神的には頼っていない。

巴衛目線では、500年前からの想い人だが、「心」(魂)に惹かれたのにそれがどういうことか理解しておらず、「器」重視による一連のやらかし。巴衛は奈々生にそばにいてほしい(お嫁に来てほしい)から食べものをあげたり、人さらいから助けたり、いろいろ尽くすけれど、奈々生が頼ってくれなくて苛立っている。それは彼が「心」を軽視しているからである。奈々生に「背負われる」のではなく、彼女を幸せにするために「隣に」立ちたいと望んでいる(十二鳥居はその願望を投影したもの)。

過去編の最後に、形式的には「神使」から「恋人」に変化する。けれど、巴衛の愛情表現は彼が「本質」を理解していない為、引き続き二人の想いはかみ合わない。「神使」の本質を理解していないのと同様、「恋人」であることの本質を理解していないのだ。

再び訪れた鞍馬山にて寿命の短くなった奈々生が二人の関係性を見直す。巴衛も夜鳥編後に奈々生が心の神様であることを理解する。ようやく名実ともに相思相愛の恋人関係がスタート(招き猫回)。

10年後、巴衛は「心」も見た目に見合った分だけ成長して、頼れる男になった。奈々生の言外の不安も察知できるほど心が成長している(25.5巻の後日談)。そのころに子どもが誕生したのも、巴衛が「人の子の親」たるにふさわしく精神的にも成熟したことの表れであろう(最終話)。



奈々生・瑞希の関係性


瑞希は本編のほぼ全般において奈々生の「心」をずっと支える。
奈々生もそんな瑞希が大好き。
奈々生と瑞希の関係性は、まさに「神と神使」としてのあるべき関係を体現する。
よほど瑞希と離れがたかったのだろう。奈々生は本編最後にミカゲ社に帰還するが、おそらく主たる理由は瑞希である。
奈々生は「子どものように」と表現したが、もともと瑞希が奈々生の命がけの人助けを心配して神使になった経緯や、その後の瑞希の立ち回り方を見ると、瑞希の方が年長者、「お兄ちゃん」、のようなポジションである。あるいは二人の類似性からすると「双子」のようなものだろうか。
心の面では。
そしてそれは巴衛がなりたいポジションでもある。だから巴衛は瑞希を邪魔に感じるのだ。







巴衛・瑞希の関係性


巴衛は瑞希をライバル視。
瑞希は巴衛が奈々生の「心」を無視した暴走をしないか見張る。

瑞希の「彼女のそばにいればもう一度神使(ぼく)になれる」(第4巻)という台詞と、巴衛の「神使という役職は実に窮屈で」(第13巻)という台詞は、自らにとって「神使」であることがどういうことか、実に対照的であることを示す例である。

巴衛が瑞希をライバル視していたのは、単に神使としてどっちが優秀かとか、そういうことではない。黄泉での描写までみると、特にわかりやすいが、奈々生が「心」の面で頼りにしていたのは瑞希だったのだ。奈々生の心に寄り添い続けた瑞希こそ、神寄り=神様に近いのだ。「奈々生ちゃんの第一神使ですからー」と事あるごとに言っていたのはネタではない。

瑞希の方が精神的には巴衛より大人。だから、瑞希は巴衛と奈々生の行く末を見守ってあげるし、最後に巴衛が大切な奈々生を連れ去ってしまっても、巴衛君が好きだから、と言って譲ってあげる。

黄泉での、巴衛が邪魔で奈々生をちゃんと守れないのだから奈々生をちゃんと守ってよね、という瑞希の発言の真意は、瑞希が奈々生の意思・気持ちを尊重し、一義的には巴衛に「一番」の場所を譲ってあげているからこその台詞だろう。ウナリ編からのロングパスである。しかし、巴衛はこの時点でも瑞希の台詞の真意を半分くらいしか解ってない。精気を取り戻せば助けられる、という即物的救済に走っているのだ。

三人の関係性


巴衛は、奈々生の心=意思度外視なので、基本的に奈々生を囲い込む。危険から遠ざけようとする。独占欲も嫉妬もその表れ。子どもらしさともいえる。「大事なものを穴を掘って隠す」とはそういうことだ。

奈々生は、私欲を捨て人助けの為に飛び回る。巴衛には精神的には頼っていないので、自由に動く。

瑞希は、そんな奈々生の意思を尊重し、奈々生の心に寄り添い、助けてあげる(例:出雲への神の道を教える)。

瑞希が奈々生に寄り添い、付いていくので、結局巴衛もついていく(例:龍王篇)。


テレビアニメについて


こうしてみると、アニメ化されたエピソードについては、巴衛の行動の不可解さだったり、三人の関係性の不可解さについては、捨象して楽しむことができる構成になっている。

私は、テレビアニメと原作漫画は、同じ題材でもそれぞれ別コンテンツであるものととらえて楽しんでいる。映画『風の谷のナウシカ』のようなものだ。


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