本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
※ 前回の記事 「神様はじめました」考察 花① 花柄・星柄・蝶柄(第11巻)が示すものとは なぜ巴衛は花や蝶を求めるのか?
「変わるもの」に惹かれる巴衛
そして、物語の終盤、巴衛は、人になって変わった悪羅王を見て、「変わることのできる」ところに「人の強さ」を見出し、「人になりたい」と願う(第23巻第135話)。
なぜ巴衛は「変わりたい」(第23巻第135話)と願うのであろうか?
「俺の知らない奈々生」(第11巻第61話)
巴衛が「変わりたい」と思う原動力の一つとして、奈々生をもっとわかりたいのだろう。
多分、十二鳥居で「俺の知らない奈々生」がいることを知り、もっと知りたいと思ったときから(第11巻第61話)。それまで巴衛は奈々生のことを一番知っていると思い込んでいたのだが、そうではなかったことを知って驚くのだ。
(当たり前だ 奈々生のことは俺が一番よく知っている くせも仕草も甘い匂いも)
「巴衛君っ 今のが奈々生ちゃんだよ 奈々未ちゃんの意識が12年前に戻ってるんだ」
(あれが奈々生?)
第11巻第61話 |
(あれは俺の知らない奈々生だ)(第11巻第61話)
そして、巴衛は、十二鳥居にやってきた本来の目的をさし置いてでも、自分の知らない奈々生を知りたいと思って奈々生の記憶の世界に居座り続けるのである。
第11巻第62話 |
(十二年前の奈々生は俺の知らない顔をしている)(第11巻第62話)
第11巻第62話 |
(俺の知らないあいつを見ておきたい もう少し もう少し…)(第11巻第62話)
年末闇市デート回(第11巻)
年末闇市で転んだ奈々生の落ち込んだ表情を見て巴衛が履物を買いに行くけれど、奈々生が落ち込んだのは「神様じゃないんだ…」という部分であるのに、多分巴衛は合わない履物で転んだからだと思っている。
そのときの「巴衛ビジョン」の奈々生は、朗らかに「いってらっしゃい」と言っているからだ。
しかし、実際の奈々生の心境は「雨」だと思われる。あのとき奈々生がさしている葉っぱの傘は、まさに当時の奈々生の心に雨が降っていることの象徴であろう。(なお、その後に易者が傘を持ち去るのは占いで花が出て奈々生の心が「晴れた」ことを象徴するものである。)
多分巴衛の一連の言動に悪気も深い意味もない。自分の「言葉」が与える力を知らないだけ。毛玉に「悪臭がする」と言ったのと同じ。深く考えずに言ってしまう。「言霊」の本質を理解していないということでもあり、神様ワールド的に言えば、やはり彼の本質は「神寄り」ではない。
「心」を軽視しているのだ。
第1巻から、たまに出てくる巴衛ビジョンの奈々生は明らかに奈々生の実物と離れていて、おかしくもあり、いかに二人がかみ合ってないかを示すものでもある。相互理解の難しさを示すものでもある。
だから本当に、巴衛は奈々生のことがわかっていなくて、「わかっていない自分」も多分わかっていない。十二鳥居ででてきた小さな奈々生くらい見た目も違わないと「知らない」ことに気づかないのだ。
しかし、次第に、巴衛は、奈々生のことがわからない自分に気が付き、もっとわかりたいと望むようになるのだ。
沖縄の巫女との再会(第20巻第115話)
巴衛は、沖縄修学旅行中に、
(前から思っていたが奈々生はやっぱり幼いな 時々よくわからんことを言い出す)(第20巻第115話)
と思っていた。ところが、修学旅行後は、人になればもっと奈々生のことがわかるはずだし、一緒に変わっていきたいと望んで、人間になることを考えだすのだ(第20巻第116話)。
したがって、この間に起きたエピソード、すなわち、沖縄の巫女との邂逅が巴衛に影響したのだ。
おそらく、巴衛は、「大人になったら楽しかったと振り返る思い出が作りたい」という奈々生の言葉と、「楽しかった」という沖縄の巫女の言葉の実質が同じであり、巫女と奈々生は「同じ目線」なのに、二人の言っていることが「わからない」ことを実感したのだ。
第20巻第115話 |
それで奈々生と一緒に歳を重ね、一緒に変わっていき、年をとったら一緒に楽しかったと振り返られるようになりたいと願うのだ。つまり、「わかりたい」、同じ目線に立ちたいから変わりたいと思うようになるのだ。
「その時が来たらお前と一緒に楽しかったと振り返られるようになろうと決めたのだ それが一緒に生きるということなのだろう」(第20巻第117話)
巴衛にとっての「恋の成就」とは「共に生きること」である(第25巻第145話)。好きになった女の子が、時の流れとともに変わりゆく存在(人)である以上、自分も一緒に変わっていきたい、同じ目線で思い出を振り返りできるようになりたい、つまり「理解したい」がために、巴衛は自分も「変わる存在」になることを望むのである。
修学旅行後(第20巻第116話)
第20巻第116話 |
人間になると言いだした巴衛に対し、鞍馬に
「奈々生は喜んでるのか?」
と問いかける。これに対して巴衛は、
「…わからない だが人になればもっとあいつのことがわかるはずだ」(第20巻第116話)
と答えている。これは巴衛の変化を示すものである。この段階になると、巴衛は、自らが奈々生の気持ちを「わからない」 ということを自覚しているのだ。以前の巴衛であれば、奈々生が喜んでいると思い込んでいたかもしれない。
巴衛ビジョンが描かれたのは沖縄修学旅行前のテスト勉強回が最後である。それもおそらく、沖縄以降は、奈々生のことを「わかりたい」と思うようになってて、先入観とかイメージを持たないように努力していることの表れなのかもしれない。
「人になればもっとあいつのことがわかるはずだ」と思って人間になろうとするのは、単に奈々生に先立たれるのが嫌だとか心でも同じ所に還りたいとかではなくて、本当に「奈々生のことをわかりたい」という動機なのだろう。
10年後
10年後の巴衛は、「人になって奈々生のことがずっとわかるようになってきた」と言っている(第25巻最終話)。
第25巻最終話 |
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こうしてみると、やはり、巴衛が人間になって「変わりたい」と思う動機の一つとして、「もっと奈々生のことがわかりたい」という欲求があったのだろう。
多分、もし奈々生が「能天気に笑ってる」だけじゃないと知らなかったら「知りたい」とも思わなかったかもしれない。
しかし、おそらくは、十二鳥居で、「俺の知らない奈々生」がいることを「知った」ときから、もっと知りたくなり、彼が奈々生に益々傾倒していく過程に重なるのだろう。
いわば、「無知の知」である。
そして、沖縄修学旅行から帰ってきた頃は、「一緒に変わっていきたい」のベクトルが「器」だったけれど、最終的には「考え方」「心の持ちよう」も変わっていきたいと願うようになった。
だって「心」に人の「本質」があり、奈々生を知りたいというのはつまり、奈々生の「心」をわかりたいということなのだから。
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「人」と「妖」の関係性の構築というのはつまり、生育環境も価値観も全く違う者同士がお互いにどう理解し繋がっていくか、ということなのだが、相手を理解したいと思い、理解することを諦めない力が肝要なのだ。
相手を理解する前段階として、「相手を理解していない自分」を知ることもまた前提条件である。そもそも理解していると思っていたら理解する努力をしないからだ。
奈々生との対比
奈々生は「神様」であり、モノの本質をみることができる。巴衛自身もよくわかっていない彼の心の優しさをみている。奈々生は今を大事に生きる人間のあり方そのものを体現する存在であり、現状で満足している。むしろ、巴衛の寿命が短くなってしまうことを気にかけている。だから、当初は巴衛が人間になることに反対するのだ。
一方、巴衛は奈々生の心がよくわかっていない。最初はわかっていないことすら気づいていないけど段々わかっていないことに気が付く。
「おしてダメなら引いてみる」というような手管を使わなくても、奈々生は自らのあり方自体が未知の存在なのだ。
「わかりたい」という欲求
「人」と「妖」の関係性の構築というのはつまり、生育環境も価値観も全く違う者同士がお互いにどう理解し繋がっていくか、ということなのだが、本作では、このような関係の者同士が、相互に理解するというのが、実に難しいということがリアルに描かれている。
巴衛が人間になって変わりたいのも、奈々生を理解したいからなのである。
黄泉における巴衛の
「いつもいつも捕まえたと思ったらすり抜けるようにいなくなる…」(第22巻第131話)
というモノローグは、直接的には奈々生との「お別れ」に対するおそれなのだけれど、俯瞰的には、奈々生のことがわかったと思ったけれど、やはりまだわからない自らを感じているということなのだ。
第25巻最終話での、巴衛の、「人になって奈々生のことがずっとわかるようになってきた」(第25巻最終話)という台詞を裏返せば、巴衛は人になって「奈々生のことがわかった」「わかりきった」わけではなく、まだわからないこともあるし、これからもわかり続けたいという想いがあるのだろう。
人間同士であっても、相互理解は永遠の課題なのだから。
※ 別記事にて、相互理解というテーマについて、登場人物の関係性から考察している( 「神様はじめました」考察 物の本質をみる(12) 「同じ目線」巴衛、奈々生、瑞希、霧仁(悪羅王)について 大人になるということ)
「凝り性」(第20巻第116話)
それにしても、巴衛は、やはり物事に対する向き合い方が「凝り性」(第20巻第116話)だ。
第20巻第116話 |
「凝り性…だなお前は…呆れる」(第20巻第116話)
人間になりたいと言いだして図書館にこもって本をうず高く積み上げて読み漁る巴衛に対して、鞍馬が投げかけた台詞だ。直接的には読書にふける様子を指すが、俯瞰すれば、巴衛の物事に対する向き合い方自体を「凝り性」と言っているのだ。
人間の「心」を知りたい、自分も変わりたいからと言って、本当に「何もかも捨てて」人間になるのは、まさに巴衛の「凝り性」な性格の表れなのだ。
だって、大切な存在がいて温かい状態になるだけなら「妖」状態でもできるのだ。瑞希のように。
また、人間に化けて人の間で揉まれることでも人の「心」を学ぶことは可能だ。鞍馬のように。
にもかかわらず、人間になろうとするのは、まさに巴衛が「凝り性」であるからに他ならない。霧仁が言っていた、「人間の体の不便さ」も体感したいということなのだから。
なお、鞍馬はその後巴衛の生き方を「何もかも捨てて人間界で生きる方を選んだ」と評している(第25巻第147話)。まさに、巴衛の生き方はいわば極端と言えるほど「凝り性」なのだ。
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