2020年9月28日月曜日

「神様はじめました」考察 「昔は力のある神も主も多かった」 妖怪の歴史からひも解く「ずっと変わらない妖怪」とは

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


この作品はいろいろなモチーフが使われているので一つの型に当てはめるよりはいろいろな切り口で見るのが楽しい。今回は、人間社会という集団レベルで見た場合における、妖怪の歴史と巴衛の顛末の位置づけについて考えてみたい。


人と妖怪の違い

『神様はじめました』における人と妖怪の違いは、ミカゲにより、以下のように説明されている(第8巻第48話)。

「人がいくつも恋を重ねられるのは心が移り変わってゆくからだ 人間の寿命は一つの執着に足を取られている暇はないほど短い」

「だが妖は違う 長い時間生きる彼らは気持ちの揺れがなく決して忘れない 一つの想いを何百年も抱えて生きる だから彼らは無闇に心を動かさない 誰も愛さず苔生す者も多いだろう」 

「誰かを愛し求めるということはそれだけ妖にとってリスクの高いことなんだ」

奈々生は「ずっと変わらない妖怪」と表現しているのだが(第24巻第142話)、このような「ずっと変わらない妖怪」のあり方とは何を象徴しているのだろうか


「昔は力のある神も主も多かった」(第20巻第117話)


日本の昔の人々が、森羅万象に神の存在を見出す一方で、神として祭られなかった超自然現象が「妖怪」である。

古代では文章のみで記されていた妖怪が、絵巻物などに描かれるようになったのが中世前後。その後、超自然現象が合理的に説明できるようになるに従い、妖怪は畏怖の対象から娯楽対象へと変わっていく。

民間伝承における妖怪はかつては「生活に身近だったもの」であったが、現代においては「過去のもの」へと変貌している。これは妖怪に限らず、古典落語など文化全般の継承にかかわる問題でもある。例えば、人を化かす存在として語られていた狸や狐も、現代では身近に見かけづらくなっている。

『神様はじめました』の舞台であるミカゲ社は、人々の住む市街地からバスで1時間ほどかかる山の中にあるようである。おそらくは狐や白蛇が住んでいても違和感のない山中であろうか。こういった環境でなければもはや昔ながらの妖怪は存在できないのかもしれない。

一方、古典的妖怪と異なり、現代社会に適合した新たな妖怪、怪異も誕生している(学校の怪談系など)。このような現代妖怪はある程度受容されているが、お話しがうまれたときに前提となっていた事物の現代性が消失すれば、古典的妖怪同様、「過去の遺物」となりうる。

妖怪であっても「人々の生活に身近なもの」であり続けようと思えば変化を迫られる時代なのである。変化を拒めば「過去のもの」にならざるを得ない。

「変わらない妖怪」のあり方というのは、時代の変遷に合わせて変化することを選ばず、伝承の中に描かれたままに固定された存在を指すのだ。

沼皇女の正体が「妖怪」だと告げられたときの小太郎の反応は、現代社会の人間の通常の反応である。

「何が妖怪だ!」「そんなものいる…わけないでしょう!」(第12巻第70話)

「昔は力のある神も主も多かった」(第20巻第117話)というミカゲの台詞は、昔は神も妖怪も、人々にとって身近な敬愛または畏怖の対象であったことをいう。

水難を嘆いた人々に求められて生まれたであろう水神・ヨノモリ様が、時代が移ろい、人の手で治水できるようになったことで必要とされなくなり、「おかくれになった」ことは実に象徴的である(第3巻第16話)。

大国主様レベルだと、参拝者が沢山いらっしゃるし、縁結びの神様として現代でも必要とされているから、存在し続けられる。対する黒麿が憂鬱なのも、人々から必要とされてないと感じ、自分の存在意義を疑問視しているのだろう。

ヨノモリ様の例をふまえると、狐の大妖怪なる存在(巴衛)も中世前後の戦乱の中、人々が超自然現象に対して感じた畏怖の具現化であり、平和になった現代の人間社会においては、もはや存在しえないのだ。狐自体、現代の人々の暮らしの身近には見つけにくくなっている。



「ずっと変わらない妖怪」(第24巻第142話)とは


以下は瑞希に別れを告げる奈々生の台詞だ。

「ミカゲ社にいると楽しいよ 時間が止まったみたいで現実を忘れそうになる でも時間は止まったりなんかしない 私は大人になっちゃうんだよ 歳を取っていくんだよ」「ずっと変わらない妖怪達とは違う」(第24巻第142話)

第24巻第142話


俯瞰すれば、「歳を取って変わりゆく人間のあり方」は、「時代の変遷と共に変貌を遂げる人間社会そのもののあり方」と重なる

上記の通り「ずっと変わらない妖怪」は、昔話の中にしか存在しない。昔話の中の妖怪は「お話しの世界」のなかでは不変かつ永遠に存在するけれど、もはや現代の人間社会においては、「過去のもの」である。

どんなに昔話の中の妖怪と親しんでも、変わりゆく人間社会においてはいつかは手を離すべき対象である。

作中、幾度となく描かれた巴衛と奈々生のすれ違いや相互理解の困難さは、「過去のもの」となった古典的妖怪は、現代の人間社会においてはもはや「人間にとって身近な存在」ではないことの象徴でもある。

時計の針を巻き戻せない以上、昔話の中の妖怪が人間と共に生きようと思ったら、昔話の世界から出て現実世界に飛び込むしかないのである。

だから、人間(奈々生)と「共に生きたい」「添い遂げたい」と願った妖怪(巴衛)は「変わること」を選ぶのだ。

しかし、「過去のもの」である妖怪が、多少変容して「現代版妖怪」(現代の生活環境に即した妖怪)に変わっても、人間社会における技術革新等により、再び人間社会においては「過去の遺物」になりうるおそれがある。

だから「人間そのもの」になることを選ぶのだ。そうすれば、人間社会の変容に合わせて自分も一緒に変わっていけるので、ずっと身近な存在=共に生きられるのだから。


「人間社会の一員になっているという感じだ」(第25巻最終話)


人間になって10年後の巴衛は、「人間社会の一員になっている」と実感している(第25巻最終話)。人間の姿に化けているだけでは得られなかった感覚なのだ。


500年前は人と妖の世界の区別があまりついてなかったけれど、現代ではしっかり世界の区別がついているのも実に象徴的である。

昔の人が畏怖した超自然現象のほとんどが合理的に説明できるようになった現代で、もはや妖は物語や伝承の中にしか存在しえない。すなわち、妖怪と人間は、異なる次元に住んでいるのだ。

こういう切り口でみると、巴衛がミカゲ社を出て人間になる道を歩むのは、妖怪が「昔話」の世界から出て「現代の人間社会」の中に飛び込んで適合していこうとする姿の象徴ともいえる。

本編中、巴衛が携帯電話を含む電子機器類や家電製品を使っている描写はほとんどなかった。山から下りた狐の妖怪が最後に人間になって、スマートフォンを操作している描写(第25巻最終話)は、昔ながらの妖怪が過去の遺物となりつつある歴史的経過とも重なり、若干の切なさを感じさせるのである。


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当ブログの解釈としては、『神様はじめました』は、自分の「心」との対話を通じて神様に向き合うという日本古来の神様の世界をモチーフに、思春期に揺らぐ少年と少女の「心の成長」を描いた物語である。巴衛と奈々生がミカゲ社を出るのはモラトリアムからの脱却の象徴である(詳細は、「神様はじめました」考察 物の本質をみる(17) 「大人になっちゃうんだよ」 少年と少女の心の成長を描いた神漫画)。

しかし、この作品はいろいろなモチーフが使われているので一つの型に当てはめるよりはいろいろな切り口で見るのが楽しい。今回は、人間社会という集団レベルで見た場合における、妖怪の歴史と巴衛の顛末の位置づけについて考えてみた。

それにしても、妖怪の歴史という切り口でみると随分と切ない説明になるものである。