※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
「神様」であることとは
先日、神様の世界に入ったことによって、奈々生の「心」(本質)までもが不可逆的に変容したと考察した。(詳しくは、「神様はじめました」考察 物の本質をみる(15) 「人間になる時が来た」 「神様」となる代償 奈々生はなぜ巴衛が好きなのか)
それが奈々生にとって幸せなことなのか、そうでないのか、位置づけがわからなくて、モヤモヤしていた。
でも、奈々生が巴衛の対であるように、これも成長を描いたものだということに気が付いた。
つまり、奈々生にとっては、
神様の世界に入って神様として成長すること=大人の女性として成長すること
だったのだ。
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巴衛がミカゲ社を出ることの物語上の意味は先日の記事で取り上げた。
(詳しくは、「神様はじめました」考察 物の本質をみる⑨ 「巴衛が私ではなく君の手をとるように」 最終話とミカゲ社を出た意味)
また、作品全体のテーマについては、巴衛の心の成長であり、モラトリアムからの脱却とアイデンティティの確立だと書いた。
(詳しくは、「神様はじめました」考察 物の本質をみる⑨ 「巴衛が私ではなく君の手をとるように」 最終話とミカゲ社を出た意味)
また、作品全体のテーマについては、巴衛の心の成長であり、モラトリアムからの脱却とアイデンティティの確立だと書いた。
本作は、奈々生の心の成長の物語でもあったのだから。
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作品全体を俯瞰すると、奈々生が子どもらしく純粋に巴衛に求愛できていたのは、出雲試験と出雲の神議の合間に描かれた、遊園地デート回(第7巻第38話)だった。この遊園地デート回がターニングポイントだったのだ。
このとき、奈々生は、巴衛からかんざしをもらい、巴衛が今の関係でも自分を大事にしてくれていることを知り、満たされ、現状のままでも良いと思うのだ。
(巴衛も私と同じ 今を大事にしてくれるなら それが一番の幸せ)(第7巻第38話)
そして、実際、彼女はその後は巴衛に対して見返りを求めなくなっている。その次の回では巴衛を心配して出雲に連れていくのをやめるし(第7巻第39話)、黄泉から帰った後巴衛が神使をやめると言いだしても引き止めないし、おそばデートで巴衛に「好き」とは言っても彼の気持ちは求めないのだ(第8巻)。瑞希が言った通り、巴衛のことを好きだとは言っても結婚できる相手ではないと割り切っているのだ(第11巻)。
25.5巻に掲載された「その後の二人」で、10年後の奈々生が、遊園地でのデートを振り返り、あの頃は私も「子ども」だった、巴衛も「妖怪」だった、と振り返っているシーンがある。そこでは、まさに、彼女は子どもらしく巴衛に向かい合うことのできたあの日のことを懐かしく振り返っているのだ。だから「宝物」なのだ。
時には自分の欲求を抑えて相手を思いやり、寄り添うのは、まさに「大人の女性」の向き合い方だ。そして、大人になったらもう子ども時代には戻れないのだ。
けれど、常に自分をおさえてばかりでは、幸せにはなれない。
大人になっても、自分の願い、譲れない望みを見失わないことが大切。
そのために、自分をしっかり確立すること、強くなることが必要。
すなわち、本作品は、奈々生の心の成長も描いていたのだ。神様ワールドはそのためのモチーフだったのだ。
結局、本作は、主役二人の心の成長を、それぞれの切り口で描いていたのである。
したがって、奈々生の心が「神様」に変容したのも、ポジティブなことなのである。
作中で、奈々生が「神様」の顔と「人間の女の子」の顔を行ったり来たりするのは、少女から大人の女性へとステップアップする過程での揺らぎのようなものだ。
「この中に入っても私にできることはないかもしれない…」(第7巻)
少女が大人へと変わっていくという意味で、象徴的に描かれていると感じるのが、出雲の神議に参加するために奈々生が扉を開けるシーンである。
「神様」とはすなわち「精神的に成熟した大人」の象徴でもある。
「この中に入っても私にできることはないかもしれない…」(第7巻第40話)
しかし、奈々生はミカゲの励ましの言葉を受けて、扉を開けるのだ。
(この扉を開けても きっと 私にできることはある)(第7巻第40話)奈々生は勇気をもって大人の世界に飛び込んでいくのである。
「大人になっちゃうんだよ」(第24巻第142話)
「ミカゲ社にいると楽しいよ 時間が止まったみたいで現実を忘れそうになる でも時間は止まったりなんかしない 私は大人になっちゃうんだよ 歳を取っていくんだよ」(第24巻第142話)
第24巻第142話より |
直接的には奈々生から瑞希へ向けた台詞だが、結局、ミカゲ社にいることがどのようなことだったかを説明するという点で、巴衛と奈々生のあり方を読者に説明するものでもある。
ミカゲ社にいることの象徴的意味は、そこで時間が止まっているようなものだった。巴衛にとっても、奈々生にとっても。巴衛の方がわかりやすい。妖怪は年を取らない、という設定だ。でも、奈々生にとっても、いわばモラトリアムだったのだ。
(止まっていた時間が少しずつ動き出していく)(第24巻第141話)
神様の世界に引き込んだのはミカゲ様。でも、もともと家族も家もなくしてそのままだと無理矢理「大人」にならざるを得なかった女の子が、きちんとプロセスを踏んで大人になるようソフトランディングする時間も場所も与えてくれた。だからモラトリアムとも言えるし、ミカゲ様の愛なのだ。
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心を全く分かっていない巴衛の方が課題が大きいから、奈々生のほうの課題が目立たなかったけれど、彼女自身も、自分の願いを時として差し置いてしまったり、自己犠牲にすぎるという危うさがあり、その克服が彼女の課題だった。
俯瞰すれば、モラトリアムの男の子と女の子がそれぞれ心の成長を遂げて大人になって一緒に並んで生きていくということ。二人ともちゃんと幸せになったのだ。ようやく納得できた。
時に自分の「心」の声を差し置いてしまうようになった奈々生が自分の「心」と向き合い、巴衛と生きていく為に自分の歩む道を見つける。それは、奈々生自身のアイデンティティーの確立の過程でもあった。
神様との向き合い方やファンタジー設定などエンターテインメント要素を捨象して純粋にテーマとしてみると、
物語に流れる大きなテーマは、巴衛については
「モラトリアムだった男の子が大好きな女の子の隣に立って幸せにするために、モラトリアムから脱却し、保護者から自立し、社会へ出ていく」
神様との向き合い方やファンタジー設定などエンターテインメント要素を捨象して純粋にテーマとしてみると、
物語に流れる大きなテーマは、巴衛については
「モラトリアムだった男の子が大好きな女の子の隣に立って幸せにするために、モラトリアムから脱却し、保護者から自立し、社会へ出ていく」
そして奈々生については
「少女と大人の女性の狭間で揺らぐ女の子が、大人の女性へ成長する過程で、時に他人を優先し自己犠牲に走りがちな中で、自分の本当の願いを見つけ選びとる」
ということだ。そのための関係性が描かれていたのだ。
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奈々生が巴衛と共にミカゲ社を出ることの物語のテーマからみた意味は、大人になった奈々生が巴衛と家族になる為の通過儀礼なのだ。
血縁のある家族に縁遠かった奈々生。彼女の願いは、「家族」を作ること。そして、巴衛と本当の意味での家族になることだった。
「神様はじめました」考察 アイスクリームは何だったのか?孤独な少女が家族をつくる物語
ミカゲ社を出るというのは、つまり、大好きな男の子と結婚して実家を出て、一緒に新しい家庭を築き、新しい家族をつくるということなのだ。
ミカゲ社を出るというのは、つまり、大好きな男の子と結婚して実家を出て、一緒に新しい家庭を築き、新しい家族をつくるということなのだ。
まさにこれが奈々生の願いであり、テーマだったのだ。
「人間の娘として生きていくということですよ」(第24巻第141話)
奈々生が皆に別れを告げ、ミカゲ社を出ていくのは、巴衛と共に生きていく人生を選んだということだ。
ただ、奈々生は優しく、周りを思いやってしまう。自分の願いを優先することを躊躇ってしまうのだ。だから、ミカゲが最後に背中を押したのだ。
「人間になるということは人間界で生きるということです 人間になった巴衛と生きていくということは 奈々生さん あなたも人神ではなく 人間の娘として生きていくということですよ」(第24巻第141話)
ミカゲは、日本の神様である。神様ワールドでは、神様はヒントを提示しても自分の頭で考えさせる。ミカゲもそうだった。過去編導入時も、紫殿を見せたときも。
第14巻第81話 |
「自分で思い至ることが大事なんだ」(第14巻第81話)
奈々生の進路についても、「奈々生さんがどんな将来を選ぶのかわかりませんが」(第18巻第104話)とって奈々生の選択に委ねる姿勢だった。
そのミカゲが、あのときは奈々生の進路に口をはさんだのだ。他人を思いやってばかりで自分の願いを優先できなくなっていた奈々生の背中を押したのだ。
それはつまり、ミカゲ様が「神様」の本分を超えて、奈々生を思いやった、まさに「父」のような愛情からのものだと思う。
奈々生の選択に委ねる姿勢だったとはいえ、勉強するよう促していたし(第18巻第104話)、ミカゲ様は奈々生がいずれ人間の世界に戻ることまで見越して思いやっていたのだろう。
「瑞希の気持ちを考えたら一番辛い」(第24巻第142話)
奈々生は人の世に戻ることを決意するものの、瑞希やミカゲ社の面々、巴衛自身も慮って揺れている。
第24巻第142話 |
巴衛が奈々生を見つめている一方で、奈々生は目線を巴衛にあわせず、若干そらしている。この瞬間、奈々生の心を占めるのは瑞希やミカゲ社の面々だからだ。
巴衛がそのタイミングで神と神使の契約のキスをするのは、単に神使に戻りたいからではない。周りを思いやって決断に揺れている奈々生の手をいわば引っ張っているのである。
「今は神と神使の契約だがそんなものはやくなくなればいいと俺は思っている お前が泣こうがわめこうが俺は人間になるぞ」(第24巻第142話)
一方、奈々生は優しく、他人を慮ってしまうからこそ、時に惑うのだ。だから巴衛が彼女の手を引っ張るのだ。そして、奈々生が巴衛に惹かれるものがそこにある。時に惑い、自分の願いを脇に置いてしまう彼女の手をつかみ、引っ張り上げる力強い「手」だ。
「実家」に帰る(第25巻最終話)
「大人になる」ために巴衛は妖力や寿命、神使という役職・・・いろいろなものを手放した。
それは奈々生についても言えるのだ。大好きな男の子と共に生き、新しい家族をつくるために、それまでに得たもの(神としての通力や人外のつながり)を手放し、以前の家族の元を離れて新しい家を作るのだ。
だからこそ、巴衛と奈々生の二人が手に手を取り合って社を出ていく。
そして、10年後にミカゲ社に還るのは「実家」への帰還なのである。
関係性について
【巴衛と奈々生】
巴衛の方が心をわかっていない分、やはり奈々生よりは精神的に幼いのだろう。
この二人の恋は、いくつかターニングポイントがあるのだが、遊園地デート回もそうだった。このエピソードを境に、奈々生は巴衛に対して「大人の女性として」向き合うようになり、「子ども」のままの巴衛と目線が変わってしまったのだ。
しかし、巴衛は自分の心がわかっておらず、なぜ二人の目線が違うのかもわからない。奈々生に頼ってほしいのに頼ってくれなくてモダモダしていたのだ。なんとも可愛らしい狐様ではないか。
「人本位」に例えるならば、巴衛の成長は、心を理解していない幼子が大人の男性へと成長する過程を描いたものである。最初はちびっこ巴衛からスタートし、奈々生との距離が近づくたびに、彼の心も成長したのだ。
私見だが・・・
私見だが・・・
- スタート時点:ちびっこ(心を知らない)
- 出雲で奈々生を好きだと自覚:小学生レベル(好きな子を苛めたくなる)
- お付き合いスタート時点:中学生レベル
- 悪羅王・夜鳥編終盤:奈々生と同じ目線、すなわち、高校生男子レベル
- 10年後に社に戻った頃:外見相応の大人の男性
【ミカゲ、瑞希】
ミカゲは巴衛だけでなく奈々生にとってもいわば父性の象徴だ。これはわかりやすい。
そして、瑞希は奈々生にとっても巴衛にとっても、いち早く「神寄り」、すなわち、大人になって、未熟な二人を見守る存在だ。
「人本位」の見方で例えるならば、やはり、瑞希は奈々生にとってはお兄ちゃんポジションだったのだ。奈々生は瑞希にとっては、とてもとても大切な「妹」。
兄は、妹の恋路は邪魔しないけれど、暴走する妹の彼氏から守るのだ。でも妹が大人になり、妹の彼氏も成長したようだから、寂しくても見送ってあげるのだ。
(そして僕は知ったんだ 君がもういつでも飛び立てることに)(僕の大切な少女は 大人になって いつか大空へ飛び立つ)(第24巻第142話より)
彼氏からすると彼女の兄はまさに目の上のたんこぶ。だから邪魔だった。でも最終的に受け入れるのだ。自分が子どもだったと悟るから。
【霧仁(悪羅王)】
巴衛も悪羅王も、欲望のままに生きる妖怪、つまり精神は悪童だった。
でも悪羅王の方がいち早く大人になり、巴衛も彼の後に続いたのだ。
本作品の魅力
『神様はじめました』は
自分の「心」との対話を通じて神様に向き合うという日本の神様ワールドをモチーフに、
思春期に揺らぐ少年と少女の「心の成長」を描いた物語であり、
まさに読者も神様と向き合うように、私欲を捨て、鏡をみて、対話しながら読まなければならないという、
何とも言えないユニークな物語なのだ。
何度も繰り返し言っている気がするが、やはり、鈴木ジュリエッタ先生は奇才である。
読後感については、例えるならば、高尾山かと思って登り始めたら、富士山に登っているのに気が付いた。装備も足りない、そんな覚悟もできてなかった、でも登り始めたからには登頂するまでやめられなかった。そんな気分だ。
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