※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
巴衛の「手」を見る奈々生
奈々生は巴衛の「手」をよく見ている。巴衛が奈々生の「笑顔」に惹かれたように、奈々生は巴衛の「手」に惹かれたのである。
自らの心をよくわかっていない巴衛の心を映すものが巴衛の「手」なのだ。
だから奈々生は巴衛の手をみて、彼の優しさだったり、力強さだったり、必要とされていることを感じるのである。
最初の告白後に巴衛に触れられなくて寂しく思うのは、彼の「心」に触れられないからと言ってもいい。
だから奈々生は巴衛の手が好きなのだ。
十二鳥居編でも、過去編でも、現代でも、巴衛が求婚する前には、奈々生が彼の手をつかんでいる。
それは、巴衛の心に触れているともいえるのだ。
ハンバーグにしいたけを入れるのも、しいたけを取り出すのも、「手」。素直になれない気持ちだったり、喜ばせたい、幸せになってほしいという彼の気持ちが表れている。
以前、巴衛の愛情表現は「言葉」ではなくて「行動」に現れていると考えたけれど、それはつまり、「手」に現れていると言ってもいい。
作中に描かれた、巴衛の「手」の描写をみてみたい。
沼皇女との面会
夜霧車に乗る為に奈々生を引っ張りあげる手
夜霧車に乗る為に奈々生を引っ張りあげる為に手を差し出す巴衛を見て、奈々生は「相変わらず口は悪いんだけどその手は嫌いじゃないんだ」と思う(第1巻第6話)。また、鳴神編でもこのとき手を差し出す巴衛を思い返している。
巴衛の心を理解するときにその台詞はあてにしてはならない。巴衛はこのとき、奈々生が「人の世」に未練があり、帰りたいのではないかと思ってすねている。「帰りたくないのならここに残っていればいい」という台詞は、本当は人の世に帰らないでほしい、という気持ちの裏返しである。だからこそ奈々生を夜霧車に乗せるために手を差し伸べているのである。
巴衛の心を理解するときにその台詞はあてにしてはならない。巴衛はこのとき、奈々生が「人の世」に未練があり、帰りたいのではないかと思ってすねている。「帰りたくないのならここに残っていればいい」という台詞は、本当は人の世に帰らないでほしい、という気持ちの裏返しである。だからこそ奈々生を夜霧車に乗せるために手を差し伸べているのである。
第1巻第6話 |
現代の巴衛の手を感じて涙する奈々生(第3巻)
小さくなった奈々生を瑞希から引き離す手(第11巻)
第11巻第62話 |
巴衛の手をつかむ奈々生(第11巻)
小さな奈々生が巴衛の手をつかむのは、彼女が巴衛の「手」を好きな何よりの証左である。
沼皇女と立ち会うときも奈々生は巴衛の手をとる。頬を染める巴衛は何を感じているのだろうか。
結婚の際の参進の儀で「さあ行こう」と言って奈々生の手をとる巴衛。そして、10年後、「さあ帰ろう」と言って奈々生に手を差し伸べる巴衛。二人でミカゲ社を出発し、10年間で二人の家庭を築いたことを描写しているのだ。
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過去の巴衛の告白を受けるときも奈々生は巴衛の手をとっている(第16巻)。
悪羅王・夜鳥編
巴衛はキツネになっていたので、「手」の描写がほとんどない。しかし、人型に戻った時にまず巴衛はその手で奈々生をつかむのである。
寿命問題を黙っていた奈々生をつかむ手(第22巻)
第22巻 |
金策に悩む奈々生を引っ張り上げる手(第24巻第143話)
第24巻第143話 |
この時も巴衛は奈々生を手をつかみ引っ張り上げている。奈々生が彼に惹かれるものを指し示す象徴である。
「もうお前はバイトに行く必要はないぞ」と言って奈々生の手を引っ張り上げる巴衛の姿は、いかにも彼らしさを示している。巴衛は直接的には奈々生の経済的懸念を払しょくするため、つまり、奈々生を幸せにするために金の招き猫を得るのであるが、同時に、自分が奈々生と一緒にいたいという欲望もかなえているのである。奈々生がバイトに行ってしまうと自分と一緒にいる時間が減ってしまうから。つくづく自らの欲望に素直な狐なのである。
巴衛のプロポーズ前
沼皇女と立ち会うときも奈々生は巴衛の手をとる。頬を染める巴衛は何を感じているのだろうか。
大人になった奈々生に差し伸べる手(第25巻最終話)
第25巻最終話 |
結婚の際の参進の儀で「さあ行こう」と言って奈々生の手をとる巴衛。そして、10年後、「さあ帰ろう」と言って奈々生に手を差し伸べる巴衛。二人でミカゲ社を出発し、10年間で二人の家庭を築いたことを描写しているのだ。
なぜ奈々生は巴衛を好きなのか?
死が近くても周囲を思いやり、寿命について黙っている奈々生の姿。
瑞希は奈々生と思考が近いが故に、そんな彼女のあり方を受け止め、彼女を責めはしない。
一方、巴衛は奈々生が寿命問題を黙っていたことに対して、背負われたくない、自分を頼れと本音をぶちまけるのだ。
第22巻 |
「どうしてお前はいつもそうなのだ 死が間近だとわかっていてどうして俺に黙っていた 俺に隠し事はしないと約束したではないか!そうやって笑いながらまた俺の前からいなくなる気か⁉」「俺はお前と一緒に笑って同じ時を過ごしたいだけだ お前に思いやってほしいわけでも背負ってほしいわけでもない お前にとって俺は辛い時に辛いと泣き言一つ聞かせられないような甲斐性のない男か」(第22巻)
そうして、「俺が必ず守ってやる」と宣言するのだ。(そして、巴衛は奈々生や瑞希には言わないけれど(手を汚すところを見せないためだろう)、霧仁から奈々生の精気を取り返すために、非力な狐姿でも立ち向かっていくのだ。奈々生と一緒に生きたいという自らの望みの為に)
この黄泉での巴衛の姿は、まさに、巴衛ならではの反応である。
奈々生が巴衛に黙っていたのは巴衛を思いやったからだし、巴衛に頼らないのは巴衛の未熟さも原因である。しかし、巴衛はそんなことはお構いなしだ。奈々生と一緒にいたい、同じ目線でいたい、自分に頼れ、という自らの欲求、望みをそのままぶつけるのだ。いわば、彼の奈々生に対する「熱い想い」と言ってもいい。
おそらく、奈々生が巴衛を愛するものは、ここにある。時に惑い、自分の願いを脇に置いてしまう彼女の手をつかみ、引っ張り上げる力強い「手」なのだ。自らの欲求、望みに素直な彼の自我の強さ、意思の強さといってもいい。これは神様や神寄りには提示できない。巴衛ならではの性質であり、彼の本質そのものだ。
もちろん、巴衛が口は悪くても彼女を想っていろいろ尽くしてくれる優しさだったり、社を大事にし、努力を重ねる幼気な姿も好きだろうとは思う。しかし、奈々生が愛するものの本質は、神々には提示できない、まさに彼の本質的な部分なのだ。
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巴衛が奈々生に惹かれた部分もおそらく、奈々生の意思の強さや優しさであり、彼女の本質的な部分である。だから、この二人はそれぞれ自分にない、相手の本質的な部分に惹かれたのだと思う。