2020年9月8日火曜日

「神様はじめました」考察 「男らしくて頼りがいがあって」 「鏡」としてのガマ子(第13巻第77話)

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。

考察の趣旨


今回は、犬鳴沼の岩場の番人ガマ子の台詞や一連の行動(第77話)の役割を考えてみたい。

ガマ子の告白


錦編では、岩場の番人の妖怪であるガマ子が奈々生の体に取りつき、明らかに挙動不審だ。沼皇女は速攻で見抜くが巴衛は気づかない。「神社を捨てよう」と言われた時点で気づくが、その後「おもちゃ」にし始める。このとき、ガマ子の台詞は何を意味するのか。


「可愛い奈々生・・・俺のどこに惚れてくれたのだ?」
「顔も好きだしーおとこらしくて頼りがいがあって 何より 私のことを大事にしてくれるとこ・・・・・・」

最初、なぜここでわざわざガマ子に告白をさせているのか意味を測りかねていた。
奈々生の体をおもちゃにするためだけならわざわざガマ子の気持ちを聴く必要はないではないか。

鏡としてのガマ子


実は、これは、奈々生が巴衛に対してどのように思っているかが反転して言われているのだ。ガマ子は奈々生の鏡の役割を果たしているのだ。

ガマ子と奈々生は実に対照的に描かれている。


  1. 「老い」と「若さ」
  2. 体(器)と心(魂)・・・ガマ子が求めているのは器重視のつながりであるが(「逞しい雄に抱かれたい・・・」発言)、奈々生の方は精神的なつながりを求めている。
  3. 妖と人の恋に否定的か肯定的か
  4. 持ち場=職分に対する責任感・・・ガマ子は岩場の番人の役割を放棄しようとしている。一方、奈々生は社を捨てるとは決して言わない。
  5. アプローチの仕方も言葉か体か・・・ガマ子は巴衛にキスをして誘惑している(第76話)。奈々生のアプローチは常に「好き」という素直な気持ちを「言葉」にのせている。作中、奈々生から巴衛に対してキスをしたのは、一番最初に神使にした時だけである。このときもやむを得ない事情であり、基本的に奈々生は自らの体を武器に誘惑したことはないのだ。


奈々生とガマ子。実に対照的ではないか。

第77話の冒頭で敢えて1ページを費やしてガマ子に喋らせているのは、巴衛と奈々生の2人の関係性、もっと言えば、奈々生が巴衛を具体的にどのように思っているのかを反転して映すものであろう。

ガマ子の台詞を反対にすれば、奈々生がどのように感じているかを読者も理解できるという構成である。

奈々生が巴衛をどう思っているか


具体的に当てはめて読んでみよう。

「顔も好きだしー」
→奈々生は巴衛の「顔」も綺麗だとは思っているがそこを好きになったわけではない。奈々生は「器」重視でない設定である(終盤、夜鳥に向けた台詞)。

「男らしくて」
→奈々生は巴衛を大人の男性として意識してない。出雲や鞍馬山にて描写されていたが、この台詞からも、その裏付けができる。

「頼りがいがあって」
→精神的には巴衛に頼ってない。実際錦編でも自力で社を元に戻そうと奮闘している。描写から読み取ってきたが、まさにこの台詞から裏付けできる。

「何より私のことを大事にしてくれるとこ・・・・・・」
→巴衛は奈々生の「心」・「魂」を大事にしてない。現に錦編でも巴衛は本人の「魂」を放置している。そしてその時の奈々生は実際に憤っているのだ。


ガマ子の台詞は、巴衛の行いの物質面だけ注目すれば該当する。しかし、奈々生の「心」の面に注目すると全く当たっていない。むしろ逆である。奈々生本人であればまず出てこない台詞の数々だ。


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ガマ子に対する巴衛の不可解な行動については別記事で検討している
「神様はじめました」考察 巴衛のガマ子への台詞の意図を読み解く(第13巻第77話)