※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
今回の考察内容
- 鏡の果たす役割
- 作品中に登場する鏡
- 誰かは誰かを映す鏡
- 読者にとっての鏡
鏡の果たす役割
「鏡」は「かがみ」=「かみ」に通じる。鏡を通して神様と自分が向かい合い、誠実で清らかな心でお参りをする。鏡をみて、自分で考えるのだ。安易に答えを他者に求めず、自分の心の声を聞き、自問自答し続けることが大事なのだ。
かつてミカゲが言ったように、自分の頭で考えることが大事なのだ。
「自力で思い至ることが大事なんだ」(第14巻第81話)
第14巻 |
まさに、鏡は、作中の登場人物に対しても、読者自身に対しても、「私欲に囚われず物事の本質をみる」ために必要なアイテムであった。
作品中に登場する鏡
- 映して情報をえるもの
- 異界への入り口
- 自らの心を映して自らと対話する
ミカゲの懐鏡(鳴神編、過去編)
巴衛が隠れるときの場所(鳴神編、過去編)。懐鏡は携帯用の小型の鏡であり、その中に入るのはミカゲにだっこされているようなものなのだ。懐鏡は巴衛がミカゲに甘えていること、拠り所がミカゲであることを示すモチーフ。だから過去編で懐鏡から出てきたのは、巴衛がいよいよミカゲの手を離れ、奈々生の手を取ったことを示す象徴でもある。
イザナミのもつ鏡
イザナミの持つ鏡は、地上を映したり、交信する手段として使われている。
石板鏡(第11巻)
霧仁が黄泉への入り口を作るために黄泉から持ち帰った土で作ったもの。周波数を合わせることにより黄泉への道が開く。ここでは「異界への入り口」としての鏡が描かれている。
夜鳥の持つ鏡(悪羅王・夜鳥編)
夜鳥が、大国主の魂を閉じ込めるために使う。ミカゲの鏡がいわばゆりかごであるのに対し、夜鳥の持つそれが檻の役割を果たすのも興味深い。
そして、地上と黄泉をつなぐ、いわば「異界への入り口」としての役割も担う。
また、この鏡の中で、黒麿と大国主が「対話」をしている。黒麿は途中まで考えていたのに、やめてしまう。大国主では黒麿を救えなかったのだ。
水晶鏡(悪羅王・夜鳥編)
最後の戦いで戦局を映す鏡。亜子はそこに映る霧仁を見て自分が何者であったか思い出していく。
誰かは誰かを映す鏡
本作では、誰かは誰かを映す鏡のような存在として描かれている。
鞍馬山では巴衛は二郎をみて、奈々生に対して素直になれない自分を理解する。
「男だ強者だと言うのなら取り繕わず奈々生が好きだと認めたらどうだ!! 貴様を見ていると鏡を見ているようでイライラする」(第10巻)本作では「対となる」というキーワードも出てくる。象徴的には、対になる関係の人たち同士をみるとわかるということだ。
巴衛と奈々生、主人公カップル自体がある意味正反対であり、鏡でもある。言葉で素直に愛情を表現する奈々生の姿は、言葉で愛情を表現しない巴衛のひねくれ具合を際立たせると同時に、彼の愛情表現は行動を注目せよということでもある。
十二鳥居で出てきた小さい奈々生は、現在の高校生奈々生の心の底にあるものを映す鏡でもある(第11巻)。
そしてそういう成り立ちだと読者に教えるのが黒麿の役割だった。誰かは誰かを映す鏡なのだ。
巴衛の心を理解するときに巴衛自身の言葉やモノローグは、あてにしてはならない。巴衛自身が自分の心を理解していないから。巴衛の心を理解するためには、巴衛が物語の中でみている「鏡」を読者もみなければならないのだ。
本作の解釈の難しさの一つとして、鏡を見ている者(=本質をみている者)と鏡を見ていない者(=本質をみていない者)との台詞が混在していることがある。
おそらく、ミカゲ、瑞希がみている世界と、巴衛がみている世界は反転している。
小編である、鳴神編と十二鳥居編は、それ自体が物語全体の鏡である。
十二鳥居編は、奈々生の本質や、巴衛の奈々生への向き合い方を映す鏡であった。
一方、それに先立つ鳴神編は、巴衛の本質や、奈々生の巴衛への向き合い方を映す鏡だったのだ。
鳴神編と十二鳥居編を合わせると、物語全体における彼らの本質と関係性、物語のテーマが浮かび上がってくる。
【心の本質】
巴衛は、幼気なキツネの子どもからスタートし、その後小学生男子レベルに成長(小学1年生の奈々生と同じ目線)。
奈々生は、思いやり深く、優しい。能天気だが、過去の生育環境から心に弱い部分も抱えている。他人に頼らず生きてきた。
【お互いへの向き合い方】
奈々生は「神」のように巴衛を思いやり、寄り添い、巴衛を心配して捜し、非力でも周りの助け(ご縁)を得ながら奮闘し、手を差し伸べる。そしてその手をとる巴衛。(鳴神編、過去編、火の山)
巴衛は奈々生に背負われるのではなく、自分に頼ってほしい。
巴衛は奈々生にそばにいてほしい(お嫁に来てほしい)から食べものをあげたり、人さらいから助けたり、いろいろつくす。
【二人の願い】
巴衛の願いは、奈々生にお嫁に来てもらうこと。
奈々生の願いは、巴衛と家族になること。
【ストーリー展開】
非力な奈々生は周囲の助け=ご縁によって難局を乗り切る。
巴衛がミカゲの庇護から離れ、奈々生の手を取るようになる。
【伏線】
笹餅、ご先祖。妖の姿。
まさに鏡まみれ。
黒麿の位置づけについて考えあぐねてきたのだけれど、相対する者によって姿や立ち回りを変えるあり方からして、黒麿自身が「鏡」なのだと思う。
「鏡」は映すだけで相手を愛さないから虚しいのだけれど、時廻りで暗中模索だった奈々生にとっては道標となる存在であり、それを感謝されて成仏したのだ(第24巻)。
読者にとっての鏡
本作の解釈の難しさの一つとして、鏡を見ている者(=本質をみている者)と鏡を見ていない者(=本質をみていない者)との台詞が混在していることがある。
おそらく、ミカゲ、瑞希がみている世界と、巴衛がみている世界は反転している。
鳴神編(第2巻)と十二鳥居編(第11巻)の位置づけ
小編である、鳴神編と十二鳥居編は、それ自体が物語全体の鏡である。
十二鳥居編は、奈々生の本質や、巴衛の奈々生への向き合い方を映す鏡であった。
一方、それに先立つ鳴神編は、巴衛の本質や、奈々生の巴衛への向き合い方を映す鏡だったのだ。
鳴神編と十二鳥居編を合わせると、物語全体における彼らの本質と関係性、物語のテーマが浮かび上がってくる。
【心の本質】
巴衛は、幼気なキツネの子どもからスタートし、その後小学生男子レベルに成長(小学1年生の奈々生と同じ目線)。
奈々生は、思いやり深く、優しい。能天気だが、過去の生育環境から心に弱い部分も抱えている。他人に頼らず生きてきた。
【お互いへの向き合い方】
奈々生は「神」のように巴衛を思いやり、寄り添い、巴衛を心配して捜し、非力でも周りの助け(ご縁)を得ながら奮闘し、手を差し伸べる。そしてその手をとる巴衛。(鳴神編、過去編、火の山)
巴衛は奈々生に背負われるのではなく、自分に頼ってほしい。
巴衛は奈々生にそばにいてほしい(お嫁に来てほしい)から食べものをあげたり、人さらいから助けたり、いろいろつくす。
【二人の願い】
巴衛の願いは、奈々生にお嫁に来てもらうこと。
奈々生の願いは、巴衛と家族になること。
【ストーリー展開】
非力な奈々生は周囲の助け=ご縁によって難局を乗り切る。
巴衛がミカゲの庇護から離れ、奈々生の手を取るようになる。
【伏線】
笹餅、ご先祖。妖の姿。
杵島回(第20巻第114話)と沖縄の巫女回(第20巻第115話)の位置づけ
杵島回(第20巻第114話)とそれに続く沖縄の巫女回(第20巻第115話)は、それぞれ奈々生と巴衛が抱えている「器と本質」問題を映す、いわば「鏡」とも言うべき回である。
奈々生・・・自らの本質がどんどん神様に近づいている。そのことを自覚していない。
巴衛・・・自らが器に囚われ、本質を見ていない。そのことを自覚していない。
一見単なる箸休めとも思える日常回にこそ実は物語の根幹にかかわるメッセージが含まれているということであり、本作の魅力の一つでもある。
まさに鏡まみれ。
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ちなみに、鏡(かがみ)の語源は影見(かげみ)である。
ちなみに、鏡(かがみ)の語源は影見(かげみ)である。
また、神功皇后が水鏡に姿を映した故事から「御影(みかげ)」と名づけられた地域もあるようだ(神戸市の弓弦羽神社の社伝)。
だから、そういうことなのだ。