2020年9月28日月曜日

「神様はじめました」考察 花① 花柄・星柄・蝶柄(第11巻)が示すものとは なぜ巴衛は花や蝶を求めるのか?

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



今回の考察内容

  1. 花柄・星柄・蝶柄(年末闇市(第11巻))が示すものとは
  2. なぜ巴衛は花や蝶を求めるのか?


花柄・星柄・蝶柄(年末闇市(第11巻))が示すものとは


年の瀬の妖の市場、闇の市では、花柄、星柄、蝶柄の3種類の柄が描かれている(第11巻)。


巴衛が奈々生に選んだ草履の柄は「花柄」である。巴衛の奈々生に対するイメージが「花」であることを示す明確な描写である(第11巻)。それは儚さも含むものである。先立つ遊園地デート回で桜の花の簪を贈っている点からも伺われる。

奈々生は巴衛にとって、桜の花のような存在なのだ。綺麗で触れて愛でたくなるけどすぐ散ってしまう。壊れやすく脆く短命な存在。

なお、奈々生自身も「桜の花柄」の半纏を羽織っているので、ここで描かれているのは、巴衛の見方のみならず、作中における人間のあり方自体と言ってもいい。


一方、巴衛は奈々生に似合わないと言って即却下してた「星柄」。「星」こそ、まさに「花」と対極のものである。生き物からすると永劫とも思えるくらいの時間にあり続け、美しく輝き続ける存在。

星と花は、同じ綺麗なものでも寿命が違うのだ。


年末の市場での描写は

「星柄」:タヌ子さんたち「妖」壊れにくい、長寿、強い

「花柄」:奈々生「人間」壊れやすい、短命、弱い

という対比である。

当時の巴衛の物の見方、価値観を反映するものだ。


また、このとき、巴衛は外出着として「蝶柄」の着物を選んでいる。

相変わらず「蝶柄」の着物を着てるのはミカゲに対する依存心があることを暗喩してる。多分巴衛の無意識レベルでは「神様」はミカゲ様なのだ。

だから、奈々生をきかれて、「ただの連れ」という言葉がポンっと出てしまう。あれは多分パジャマ姿は神様らしくないと本気で思って出た発言だ。自分の「神様」として紹介したくなかったのだ。恥ずかしいから。身も蓋もないけれど、そのころの巴衛はそんな感じ。だからこそその後のウサギの易者の台詞につながる。

しかし、ミカゲを表すものが「蝶」というのも意味深である。蝶は、ひらひらとどこかに飛んで行ってしまうもの。実際、作中ではひらひらと飛んでいく蝶を捕まえようとする巴衛が描かれている(第8巻)。

巴衛は、ミカゲであれば自分を置いていかないだろうと思って神使になることを選んだわけであるが(第13.5巻掲載の番外編)、確かに「神様」は簡単には死なないけれど、自由にどこかにいなくなるかもしれない存在なのだ

八百万の神様とは「自然」のようなものなので、自然と人間の向き合い方を考えると、まさにそういうものかもしれない。古代の人々にとって、森羅万象とは、人間の意思を越えた現象であり、コントロール不能であり、だからこそそこに神を見出だしたのだ。


以上、まとめると、

「星柄」:タヌ子さんたち「妖」壊れにくい、長寿、不動

「花柄」:奈々生「人間」壊れやすい、短命

「蝶柄」:ミカゲ「神様」壊れないけど自由にいなくなる

ということである。


なぜ巴衛は花や蝶を求めるのか?


星と人間の距離は不変だが、花や蝶はそうではない。

花にせよ蝶にせよ、巴衛はいつも置いていかれる側である。

置いていかれるのに、それでも「蝶柄」の着物を着たり、「花柄」の草履を買ったりしてるのは、巴衛が求めてるのは花(奈々生)や蝶(ミカゲ様)ということでもある。

星柄はタヌ子さん達に似合うと言いつつも、自分では買ってないのだから(第11巻第65話)。

第11巻第65話


そう考えると巴衛は一途である。彼の基本的な向き合い方は、過去で奈々生をずっと待っていたときと同じなのだ。

「花」も「蝶」も変化する生き物という点では同じ。姿も想いも基本的にずっと変わらない「妖」だからこそ、自分と異なる、変わりゆく存在に惹かれているのかもしれない。

だからこそ、「人の心は変わる」と知って、自分も変わってみたいと思って、「人間になりたい」という一連の流れにつながるのだ(第23巻第135話)。


「神」も可変な存在


日本の昔の人々が、森羅万象に神の存在を見出す一方で、神として祭られなかった超自然現象が「妖」である。

現代では超自然現象が合理的に説明できるようになるに従って妖怪のキャラクター化が進むのだが、もともとは妖怪はそのような存在である。

したがって、神と妖は同じ人外でありながら、いわば対極の存在である。


本作品では、「神様」も、不老長寿でもなければ不変でもない。

「人に必要とされて生まれた」ヨノモリ様のように、人に求められなくなったらお隠れになってしまう神様もいらっしゃる(第3巻第16話)し、イザナミ様のように実体が消えてしまった神様もいらっしゃる(第8巻第43話)。

日本の神様は八百万で自然の一部だから。

卵から生まれ、幼虫、さなぎ姿を変え最後に蝶となる「蝶」をミカゲ様が依のものとするのも同趣旨である。


これに対し、本作の基本設定上、妖怪はいわば「不変」の存在である。

ずっと同じ想いを抱えて何百年も生きる。

大妖怪であった巴衛は、特に、ろうそくに見立てられた人間の命に対して、灯台のごとき長寿の生命を有する存在であり、奈々生の人生からみると、少なくとも不変に近い。


相手が姿も目線もどんどん変わっていっても自分はずっと同じままだったら、理解もできないし気持ちもすれ違うし、ハッピーエンドではない。であるからにして、巴衛は人間になりたいのだ。


※ 続きの記事 「神様はじめました」考察 花②「俺の知らない奈々生」 巴衛はなぜ変わりたいのか