2020年9月26日土曜日

「神様はじめました」考察 打ち出の小槌 「大きくなぁれ」日本における異類婚姻譚の系譜 一寸法師と巴衛

 本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



この作品はいろいろなモチーフが使われているので一つの型に当てはめるよりはいろいろな切り口で見るのが楽しい。

今回は、日本における異類婚姻譚の系譜としてみた場合における、巴衛の顛末の位置づけについて考えてみたい。


打ち出の小槌

『神様はじめました』では、打ち出の小槌が登場する。

打ち出の小槌は大国主の道具であり、鳴神編と出雲編で登場する。

鳴神編では巴衛を小さくし、また、小さくなった巴衛を元に戻すために使われ、出雲篇では巴衛を妖に戻すために使われる。

第2巻第12話


御伽草子における一寸法師

打ち出の小槌について調べるために一寸法師を調べたところ、御伽草子に掲載された「一寸法師」は思いのほかダークヒーローであった、


老夫婦が、一寸法師が全く大きくならないので化け物ではないかと気味悪く思っていた。そこで、一寸法師は自分から家を出ることにした。

京で一寸法師が住んだのは宰相殿の家

一寸法師は宰相殿の娘に一目惚れし、妻にしたいと思った。しかし小さな体ではそれは叶わないということで一計を案じた。神棚から供えてあった米粒を持ってきて、寝ている娘の口につけ、自分は空の茶袋を持って泣き真似をした。それを見た宰相殿に、自分が貯えていた米を娘が奪ったのだと嘘をつき、宰相殿はそれを信じて娘を殺そうとした。一寸法師はその場を取り成し、娘とともに家を出た。

二人が乗った船は風に乗って薄気味悪い島に着いた。そこで鬼に出会い、鬼は一寸法師を飲み込んだ。しかし一寸法師は体の小ささを生かして、鬼の目から体の外に出てしまう。それを何度か繰り返しているうちに、鬼はすっかり一寸法師を恐れ、持っていた打出の小槌を置いて去ってしまった。 

一寸法師の噂は世間に広まり、宮中に呼ばれた。帝は一寸法師の両親である老夫婦が、両者ともに帝に所縁のあった無実の罪で流罪となった貴族の遺児だと判明したこともあって一寸法師を気に入り、中納言まで出世した。 

「一寸法師」ウィキペディア(Wikipedia)より)


この御伽草子の一寸法師は、現代において童話として描かれる一寸法師と比べると、娘を手に入れるために一計を案じるあたりがズルい。すこしひねくれた性格のようでもある。

このあたりにどことなく巴衛との共通性を感じ、異類婚姻譚における位置づけも踏まえて考察することにした。


異類婚姻譚とは


異類婚姻譚とは、人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話。古今東西、様々な言い伝えが残っている。多くはタブーを犯すなどして破局に至る。

日本では、「鶴の恩返し」、「浦島太郎」、「はまぐり女房」、「安倍晴明伝説」、「雪女」などがある。対して、ヨーロッパでは「蛙の王様」、「美女と野獣」などがある。

西洋の異類婚姻譚は、元は人間で魔法や呪いで姿を変えられていたにすぎず、元に戻ってハッピーエンドとなるものが多い。それは西洋が「人間中心主義」だからとも言える。

対して、日本の異類婚姻譚は、出てくる「異類」はそもそも人間でないものが多い。人間も自然の一部という考えだからだ。


そもそも、日本には古来より「自然崇拝」という考え方がある。

自然物や自然現象に神秘的な力や人知を超えた存在を認め、それを崇め奉る。

その対象は動植物にも及ぶ。日本が八百万の神々を信じていると言われる所以だ。


『神様はじめました』も、いわば「恩返し系の異類婚姻譚」と言ってよい。

人間の娘に川辺で助けられた狐がその娘に恩返しをし、お嫁にもらうのだ。

作中の巴衛の奈々生に対する「凝り性」とまで言えるほどの尽くしっぷりからしても、「恩返し」系のおとぎばなしに出てくる「異類」を想起させる。


日本の異類婚姻譚の顛末


「鶴の恩返し」、「雪女」など、人外のままでは大抵、最終的には子どもや宝物を残して別れてしまう。これは、日本のおとぎ話における異類婚姻譚が、そもそも「人間と自然の向き合い方」を表現したものだと思えば当然の成り行きではある。

季節は巡り変わるし、嵐はいつか過ぎ去る。桜の花も散る。木もいつかは朽ち果てる。

人間に恵みをもたらすものも、人間を襲うものも、いずれも一時で、いつかは去るものだからだ

試みに『神様はじめました』を日本の伝承や昔話の系譜ととらえると、やっぱり巴衛が人外のままではハッピーエンドにはならないのだ。人間になってこそ最後まで一緒にいられる(添い遂げられる)のである。

それは、西洋的な人間中心主義というわけではなくて、日本における自然と人間の向き合い方からの帰結なのである。

巴衛は500年以上も生きる長寿の妖怪であり、夜鳥をして「灯台」のごとき生命力を有している。このような長寿の生命体というのは「木」や「岩」のような存在でもある。そのような存在が人間と一時的に心を通じたとしても、添い遂げられるわけはないのだ。

なお、日本人は古来様々なものに神を感じて崇めてきたが、木や岩などもその典型である。

川辺で助けられた狐はいろいろ尽くして恩返しをするのだが、日本における異類婚姻譚の典型例から考えると、いつかは娘から離れるのが自然である。本作品の場合であれば、寿命の差による将来の別離であろうか。


一寸法師と巴衛の顛末の近似性


このように、異類婚姻譚は最後は離れてしまうのが典型であるが、一寸法師の場合はそうではない。一寸法師は、「打ち出の小槌」で大きくしてもらった、すなわち、異類から人間へと変わったので、途中で別れることなく、女の子と添い遂げられるわけである。

『神様はじめました』の巴衛の顛末についても、どことなく近いものを感じさせられる。


普通、「自然」が「人間」に一時的に化けたとしても本質まで変わることはないが、御伽草子の一寸法師の場合は、その出奔の背景として、

「老夫婦が、一寸法師が全く大きくならないので化け物ではないかと気味悪く思っていた。そこで、一寸法師は自分から家を出ることにした。」

という経緯があった。

故に彼が打ち出の小槌で大きくしてもらう(=人外から人間へ)という帰結は矛盾がないわけなのだ。

一寸法師の例は、いわば「自然」のほうが「人間」になりたいと願った珍しい例であるが、『神様はじめました』もそれと同系列に解釈できる余地がありそうである。


御伽草子の「一寸法師」が巴衛の原型である可能性


そもそも、御伽草子の一寸法師が、好きになった娘を手に入れるために一計を案じる様も、「ズルい男」としての巴衛を想起させる。

案外、御伽草子における一寸法師は、巴衛の原型の一つかもしれない


『神様はじめました』では、打ち出の小槌が鳴神編と出雲編で登場する。

鳴神編では巴衛を小さくし、また、小さくなった巴衛を元に戻すために使われ、出雲篇では巴衛を妖に戻すために使われる。もともと打ち出の小槌は大国主の道具であり、出雲編で大国主の元に戻る。

そして、最終的に巴衛を人間にするのはやはり大国主なのである。

御伽草子において大きくなった一寸法師が娘と結ばれて立身出世したように、巴衛も人間になって奈々生と添い遂げ、人間社会でも活躍するのである。


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あくまで可能性の一つでしかないが、このように考えても面白いのではないか。