2020年9月16日水曜日

「神様はじめました」考察 「中学二年生の頃」過去の巴衛と現代の巴衛の違いとは 巴衛の心の成長過程

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。

今回の考察内容


過去の巴衛は素直だったのに現代の巴衛はなかなか素直にならなかったのはなぜか?という疑問を中心に、巴衛の心の成長段階を考えてみたい。


  1. 妖、人間、神様の象徴するもの
  2. 過去の野狐巴衛の精神年齢は
  3. 過去の巴衛と現代の巴衛の共通点と相違点
  4. ミカゲ様による育て直し:ゆりかごから再スタート
  5. 「あれは俺が中学二年生の頃」(「ザ花とゆめ」(2020年3月1日号))
  6. 「同じ目線」でないと告白できない狐様
  7. 現代の巴衛の心の成長過程


妖、人間、神様の象徴するもの


現時点での当ブログの解釈では、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)は、自分の「心」との対話を通じて神様に向き合うという日本古来の神様の世界をモチーフに、思春期に揺らぐ少年と少女の「心の成長」を描いた物語である。作品のテーマを理解するには、読者も神様と向き合うように、私欲を捨て、鏡をみて、対話しながら読まなければならないという、ユニークな物語である。
(詳細は、「神様はじめました」考察 物の本質をみる(17) 「大人になっちゃうんだよ」 少年と少女の心の成長を描いた神漫画

妖、人間、神様は、心のあり様の各段階を表すモチーフだ。

「欲望のままに生きる妖」=幼子、子ども
「人間」=大人全般
「神様」=精神的に成熟した大人。思いやり、寄り添う。
「器」=段階。妖怪の器は子ども時代だし、人間の器は大人時代。 
「人間=虫けら」という考え方=大人の不便さに対する嫌悪感

そう考えると、人間が「虫けら」だという考え方は、大人の「不便さ」全般に対する嫌悪感と言ってもいい。

人間を「虫けら」と言って人間を蹂躙する行為は、「大人」になることに伴う、不便さ、面倒さ全般に対する嫌悪感や「子ども時代」を失うことへの抵抗感・反発などを感じ、「大人になりたくない」と言って暴れる様子のモチーフかもしれない。

また、人間は「弱い」と言って恐れる様子もまた、やはり、「大人」になることへの恐怖を象徴するモチーフだろう。


過去の野狐巴衛の精神年齢は



過去の悪羅王は無邪気なちびっこ(アリを踏んで喜ぶ幼児)レベルだったけれど、その隣で悪知恵を働かせていた過去の野狐巴衛は、案外、中学2年生程度だったのかもしれない。

命の重みがわからず踏みつぶす悪羅王は、アリを踏んで喜ぶ幼子の姿を想起させる。
過去の悪羅王の心は、無邪気なちびっこレベルだ。

イヤイヤ期~幼児期にかけての男の子は怪獣さながらだ。家の中を破壊して回る。感情のままに動く。手に負えない。

一方、巴衛は人間が壊れやすいことはわかっていた。にもかかわらず、悪知恵を働かせて、悪羅王に寄り添っていた。だから、過去の野狐巴衛は、無邪気な幼子ではないのだ。
人間を「虫けら」と言って人間を蹂躙するのは、「大人」に対する反抗であり、大人になることへの抵抗感を示す、いわば、反抗期に荒れる少年の姿だ。

命の重みも理解していたからこそ、巴衛は一方的な殺戮を好まなかったのだ。

「歯向かってくる者を返り討ちにするのは好きだが 一方的な殺戮は好かん」(第7巻第42話)

奈々生は過去の野狐巴衛に対して、「巴衛は悪羅王とは違う 人の痛みがわかる狐でしょ!」と言っているとおり、精神的には悪羅王と同年齢ではあるまい。

それに、過去の野狐巴衛のほうが、他人の指摘はあったとはいえ、自分で奈々生に対する気持ちの整理もつけている。桜の木の下での告白も、実に素直で、エモーショナルなシーンだ。

過去の野狐巴衛の奈々生に対する向き合い方は、いつまで経っても奈々生が好きと認めず、好きだと自覚した後もなかなか素直になれなかった、現代の神使巴衛と対照的だ。

やはり、現代の神使巴衛よりも、過去の野狐巴衛の方が、精神年齢としては上だったのだろう。


出雲の大国主らが討伐隊を派遣したのは、荒れる幼児と中学生の悪童どもに手を焼く大人たちの姿と言ってもいい。

怪獣さながらの幼児とその意を汲んでサポートする反抗期真っただ中の中学生男子のペアは、大人からすれば驚異的破壊力だ。


過去の巴衛と現代の巴衛の共通点と相違点


「人本位」に例えるならば、巴衛の成長は、心を理解していない幼子が大人の男性へと成長する過程を描いたものである。

現代の神使巴衛は、心がわかっていなかったから、最初はちびっこ巴衛(幼子)レベルからスタートし、奈々生との距離が近づくたびに、彼の心も成長したのだろう。



現段階での私見だが・・・


【現代の巴衛】
  1. スタート時点:ちびっこ(心を知らない)
  2. 出雲で奈々生を好きだと自覚:小学生レベル(好きな子を苛めたくなる)
  3. お付き合いスタート時点:中学生レベル
  4. 悪羅王・夜鳥編終盤:奈々生と同じ目線、すなわち、高校生男子レベル
  5. 10年後に社に戻った頃:外見相応の大人の男性
【500年前の巴衛】
  1. 出会った時点:中2レベル(大人に対して抵抗感を示す荒れる中学生)
  2. 奈々生と出会い、想いを通じる:高校生男子レベルへ近づく・・・「人の痛みがわかる狐でしょ!」という奈々生の言葉も何某かの影響があったと思われる。

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【奈々生に対する向き合い方の違い】

過去の野狐巴衛は、他者の指摘はあったとはいえ、自分の頭で考えて奈々生に対する気持ちの整理もつけられていた。人本位に例えるならば、反抗期に荒れる中学生。奈々生と出会ったときは中学2年生くらいのレベルからスタートしたのだろう。過去の野狐巴衛は、最終的には桜の木の下で、奈々生に熱い想いを素直な言葉で告白できたのだ。

一方、現代の神使の巴衛は、なかなか奈々生に素直になれなかった。


奈々生と離れ離れになり、雪路の死に目に会い、黒麿と契約を締結し、ミカゲに救われ、記憶を失うという一連の事件により、巴衛の心のなかに、人間は脆くて壊れやすく、求めたくないというトラウマが根付いてしまったからだ。

もしかすると、一連の事件の結果、折角成長した彼の心は死に、ゆりかごレベルから再スタートする羽目になったのかもしれない。



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【人間に対する向き合い方の違い】

神使の巴衛は、ミカゲをよりどころにして再スタートした。ミカゲに近づきたい=「神寄り」になりたくて努力を重ねたのだろう。

また、記憶を失っても、「人の痛みがわかる狐でしょ!」という奈々生の言葉による影響もどこかに残っていたのかもしれない。雪路と過ごした時間に感じたことも影響しただろう。

あるいは、記憶は忘れてもそこにあった想いは残るのだから(第11巻)、心の中にいる大切な存在(=奈々生)を待ち続け、彼女に近づきたいという想いもあっただろう。

だから、過去の野狐巴衛のような、人の命を虫けらのようにぞんざいに扱うことはしなかった。ミカゲの神使となった巴衛は「神寄り」になろうと努力を重ねるのだ。人間アレルギーはあったけれど、時には人間の娘の命を助けることもあったのだから(第13.5巻の番外編)



ミカゲ様による育て直し:ゆりかごから再スタート


やはり、過去の野狐巴衛と現代の神使の巴衛とは、登場時の精神年齢もその後の成長過程も違う。

現代の神使の巴衛は、雪路の死がよほどトラウマだったのか、単に思考停止していたのか、人間アレルギーを発症したのか。いろいろ解釈の余地はありそうだ。

野狐巴衛も、奈々生と出会い、彼女との距離が近づくにつれて、レベルアップしたはずである。しかし、悲しい経験があって、記憶もなくなって、リセットされてしまったのだろうか。リセットされて元の位置に戻ったのか、あるいはもっと後退してしまったのか。


考え方としては、巴衛は、一連の経験を経て、「後退」というよりは、「転生」したのだろう。

ミカゲ様のよりしろは蝶であり、「蝶」は転生といったモチーフで解釈される。

俯瞰すれば、500年前の野狐巴衛は、あまりの悲しみに、心が死んでしまったのだ。

そしてミカゲ様の神使になることにより、生まれ変わったのだ。

甘えられる保護者のもとで、ゆりかごレベルのちびっこ巴衛(幼子レベル)から再スタートしたのだ。

いわば、ミカゲ様による、巴衛の育て直しである。

だからこそ、過去編終盤で奈々生が戻ってきて再会した神使の巴衛は、過去の野狐巴衛そのものではなく、野狐巴衛ほどの精神的成熟まで達していなかったから、奈々生に対する向き合い方も引き続き素直ではなく、「500年前の続き」もなかなか始まらなかったのだ。

「あれは俺が中学二年生の頃」(「ザ花とゆめ」(2020年3月1日号))


「ザ花とゆめ」(2020年3月1日号)に「神様はじめました」の番外編が掲載された。

ザ花とゆめ神(2020年3/1号)


この中で、巴衛は過去の自分を振り返り、このように評している。

「あれは俺が中学二年生の頃 親友とほうぼうを荒らし回っては悪名をとどろかせていた」
過去の野狐巴衛が生きた時代は500年前であり、現代日本社会における中学校はない。そもそも妖怪に中学校はないだろう。

だから、これは、ただのギャグ・ネタではなく、作者による答え合わせの一つではないかと思っている。巴衛の過去がわかるという触れ込みで掲載されていたが、単に昔話を思い出すだけではあるまい。

過去の野狐巴衛は、心のレベルとしては、まさに「中学二年生」だったのだろう。



「同じ目線」でないと告白できない狐様


過去の野狐巴衛による桜の木の下での告白シーンは、心にしみる光景である。

しかし、私は神使の巴衛が一番好きなので、神使の巴衛が奈々生に告白するシーンをみたかったのだ。

第24巻最後の招き猫回での巴衛も素敵だが、あのツンツンした神使巴衛が求愛するシーンこそ、読者目線ではおいしいではないか。

そういう意味でも、奈々生の見た目はちびっことはいえ、十二鳥居での告白シーンが大好きなのである。

第11巻

案外、巴衛が十二鳥居では素直に告白し、求婚できていたのは、奈々生の見た目がまさに「ちびっこ」だったからかもしれない。

好きな子を苛めたくなる発言(出雲)も踏まえると、やっぱり、十二鳥居あたりでは心の成熟度が小学生男子レベルだったからこそ、小学一年生の見た目の奈々生に告白できたのではないか。

「同じ目線」だから・・・

だからこそ、十二鳥居を出て、高校生女子の姿に戻った奈々生が、まさに「神様=大人の女性」目線で辰の子をうまく扱ったり、年神様を励ます様子を見て、さみしく感じたのかもしれない。彼らの目線はまた変わってしまったから・・・。

過去の野狐巴衛も、当初中2レベルからスタートし、奈々生に出会って影響を受けてレベルアップして、高校生男子レベルまで近づき、「同じ目線」に近づいたから告白できたのかもしれない。

そうすると、現代の神使の巴衛が素直な気持ちを言葉にのせて伝えられるようになったのが悪羅王・夜鳥編終了後であったのも頷ける。まさにあの段階で巴衛の心も奈々生と「同じ目線」の高校生男子相当レベルに至っていたのだ。

同じ目線でないと告白できないなんて。

やはり巴衛はヘタレである・・・そこもまた可愛いのであるが。
あるいは、プライドが高いので、背負われた状態では嫌だったのかもしれない。

極論すれば、奈々生に求婚したい=お嫁に来てほしいからこそ「同じ目線」になりたかったのだろう。


現代の巴衛の心の成長過程


以下は私見だが・・・
  1. スタート時点:ちびっこ(心を知らない)
  2. 出雲で奈々生を好きだと自覚:小学生レベル(好きな子を苛めたくなる)
    1. 小学一年生の見た目の奈々生は「同じ目線」なので、求婚できた。
    2. 人間アレルギー=大人になりたくない
    3. 奈々生の心軽視
  3. お付き合いスタート時点:中学生レベル
    1. 奈々生と「同じ目線」に立ち人間界で生きていきたいと思い始め、学校の勉強を始める。俯瞰すれば、いち早く大人にになった奈々生に追いつき、彼女と一緒に生きていくため、「大人」になる準備を始めるのだ。しかしまだ「大人」に対する嫌悪感は残っている。
    2. 奈々生の心に寄り添ったり心を軽視したり、揺れ動く。まさに思春期男子。
  4. 悪羅王・夜鳥編終盤:奈々生と同じ目線、すなわち、高校生男子レベル
    1. 人間を愛する=「大人」になったら変われると知って、自分も「大人」になりたいと望んだ。
    2. 名実ともに「同じ目線」となり、求婚できた。
    3. 奈々生の心に寄り添う。言葉による愛情表現も豊かに。でもまだ「大人」になり切っていないから、たまにデリカシーのない発言もしてしまう。
  5. 10年後に社に戻った頃:外見相応の大人の男性
    1. 奈々生の言外の心配や思いやりも察知できるほど心も成長
    2. 奈々生も大人の女性となり、二人とも「同じ目線」で大人の男女として向き合っている(25.5巻)。


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本作は、日常回や番外編にこそ、物語の根幹を流れるテーマのヒントが隠されている。

25.5巻(ファンブック)に掲載された後日談「その後の二人」もまさにそうである。この後日談を読まなければ、あの日の観覧車デートの位置づけや、本作品のテーマも見出すことが困難であった。作者からの答え合わせなのだろう。

現在では入手が困難となっており、私も入手するまで苦労した。ぜひ、電子書籍化をしてもらいたいものである。