本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
本作は、自分の「心」との対話を通じて神様に向き合うという日本古来の神様の世界をモチーフに、思春期に揺らぐ少年と少女の「心の成長」を描いた物語である。作品のテーマを理解するには、読者も神様と向き合うように、私欲を捨て、鏡をみて、対話しながら読まなければならない。(詳細は、「神様はじめました」考察 物の本質をみる(17) 「大人になっちゃうんだよ」 少年と少女の心の成長を描いた神漫画)
今回は、「手」について悪羅王・夜鳥との対比を通じて、巴衛の本質を掘り下げてみたい。
悪羅王との対比:「求める」か「壊す」か
初期の頃に、夜霧車に乗る為に奈々生を引っ張りあげる為に手を差し出す巴衛を見て、その手は嫌いではないと思う(第1巻第6話。
第1巻第6話 |
巴衛と悪羅王は、いずれも、欲望のおもむくままにいきる妖怪であるが、欲望の赴く方向性が異なるのだ。
「求める」方向か、「壊す」方向か。
過去の悪羅王の本質は、まさにアリを踏みつぶして喜ぶ無邪気な幼子である。悪羅王の欲望は破壊衝動となって表れるのだ。やぐらを破壊した悪羅王は、壊れたら元に戻らないことを知らずに壊してしまう。現代の霧仁が奈々生の精気を奪い、寿命を吸いつくすのも、いわば、彼の破壊活動の一環であるが、それは人の命の重みを知らないからである。
一方、夜霧車に乗る為に奈々生を引っ張りあげる為に手を差し出す巴衛(第1巻第6話)は、奈々生を求めて手を差し出しているのである。
巴衛の心を理解するときにその台詞はあてにしてはならない。巴衛はこのとき、奈々生が「人の世」に未練があり、帰りたいのではないかと思ってすねている。「帰りたくないのならここに残っていればいい」という台詞は、本当は人の世に帰らないでほしい、という気持ちの裏返しである。だからこそ奈々生を夜霧車に乗せるために手を差し伸べているのである。
巴衛の心を理解するときにその台詞はあてにしてはならない。巴衛はこのとき、奈々生が「人の世」に未練があり、帰りたいのではないかと思ってすねている。「帰りたくないのならここに残っていればいい」という台詞は、本当は人の世に帰らないでほしい、という気持ちの裏返しである。だからこそ奈々生を夜霧車に乗せるために手を差し伸べているのである。
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巴衛もまた、欲望のままに生きる妖怪である。
しかし、その欲望の方向性は、なにかを求めるためのものだ。
夜鳥との対比:「引っ張り上げる」か「引きずり下ろす」か
夜鳥の手は相手を引きずりおろすためのものである。
メタ的には、妖、人間、神様は、心のあり様の各段階を表すモチーフだ。
「欲望のままに生きる妖」=幼子、子ども
「人間」=大人全般
「神様」=精神的に成熟した大人。思いやり、寄り添う。
「器」=段階。妖怪の器は子ども時代だし、人間の器は大人時代。
「人間=虫けら」という考え方=大人の不便さに対する嫌悪感
霧仁を悪羅王本体の器に戻らせることに執着し、霧仁亡き後もその器に拘っていたのは、メタ的には、悪羅王の子ども時代に執着していたと言ってもいい。夜鳥が悪羅王に求めていたのは、「大人」にならず「子ども」のままでいてほしいということだ。
おそらく、もともと毛玉は悪羅王の本質に惹かれたはずなのだ。悪羅王は毛玉の話しをきいてあげていたから。その度量の広さ、無邪気さに惹かれたはずなのだ。にもかかわらず、毛玉が悪羅王の器に執着してしまったのは、一緒に過ごした懐かしい「子ども時代」に戻ってほしいということだったのかもしれない。
一方、悪羅王は霧仁(人間)になってから大切な存在ができており、メタ的には「大人」になりつつあった。だから、霧仁は夜鳥を好きになれなかったのだ。せっかく「大人」になりつつあるのに「子ども時代」の自分に執着していたから。
悪羅王を引きずり下ろすために夜鳥の手は使われていたのだ。
だから夜鳥の手は地面から生えてくるのだ。
一方、上記夜霧車の描写で象徴的に描かれているように、巴衛の手は相手を引っ張り上げるために使われている。
夜鳥との対比で浮かび上がる巴衛の手の使われ方は、相手を引っ張り上げたり一緒についてく為のものだ。
巴衛の手から浮かび上がる本質とは
悪羅王や夜鳥との対比で浮かび上がるのは、巴衛の手は、何かを求めてつかんだり、相手を引っ張り上げるために使われるということだ。まさにここに彼の本質だったり魅力があると言ってもいい。自らの欲求、望みに素直な彼の自我の強さ、意思の強さだったり、少年らしい純粋さが描かれているのだ。これは神様や神寄りには提示できない。巴衛ならではの性質であり、彼の本質そのものだ。
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巴衛の「手」はその手で「なにかを掴む」ためのものである。
巴衛の欲望は「求める」方向に働くのだ。だから、彼は、ほしいもののために、努力を重ねるのだ。
妖力(不思議な力)でクリアするのではない。努力の結果なのである。
現代の神使の巴衛の一連の行動はすべて、奈々生に「お嫁に来てもらう」ことが目的だった。
十二鳥居編で映されていたように、巴衛がおいしいごはんを作って食べさせることも、行方不明になったら体を張って助けに行くことも、お願いされたら女装までして学校に通っていたのも、かんざしを渡したのも、なにもかも、「奈々生にお嫁にきてほしい」からがんばっていたのだ。巴衛自身は自覚していないが。(詳しくは、「神様はじめました」考察 物の本質をみる(3)「俺の中の奈々生」 「神漫画」であることの意味)
巴衛は奈々生より100%優秀かもしれないけれど、彼は魔法使いではない。完璧なわけでもない。がんばっているからこそ、「幼気な狐」なのだ。
巴衛はまた、辛抱強いともいえる。
過去の巴衛が他の男に輿入れした相手を8年間も待っていたことや、記憶がないとはいえ、奈々生を500年間待ち続けたのも辛抱強さの表れである。
目的達成のための揺るがない意思の強さともいえるし、願いを素直に希求するという少年らしい純粋さの表れともいえる。
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巴衛の手は、相手を引っ張り上げたり、相手に一緒についてく為に使われている。
お付き合いスタート後、巴衛は奈々生と「同じ目線」に立ち「人間界」で生きていこうとし始める。
「…そうだな俺は今までここに顔を出しているだけで仕事を全うしてるつもりだったがきちんと向き合う必要がありそうだ」「一時しのぎの腰かけじゃなくお前と同じ目線で人間界(ここ)に居るつもりなんだろ だからあいつはただ遅れてる分を巻き返してるんだよ」(第18巻第102話)
メタ的には、「大人」になりつつある奈々生に追いつくために努力しているのだ。相手を「子ども時代」に引きずり下ろすのではなく、自分が相手に追いつくためにその手を使うのだ。
「私は付き合う男で自分も向上するタイプだからつまんない男と付き合ったら自分が下がるわけよ」(第18巻第102話)
まさに上記ケイちゃんの台詞が巴衛と夜鳥の違いを言い当てていると言ってもいい。言ってしまえば、巴衛は一緒に向上できるけれど、夜鳥は一緒にいると堕ちていく相手なのだ。
巴衛は奈々生を求めて努力するし、奈々生についていくために努力を重ねているのだ。