※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
前回までの記事
- 「神様はじめました」考察 物の本質をみる① 「私欲に囚われず心眼でモノを見られるかどうか」 巴衛の行動の不可解さの正体は
- 「神様はじめました」考察 物の本質をみる② 「お前も変わらねばならんよ」沖縄の巫女からのメッセージとキツネ姿になった意義
今回の考察内容
今回は、さらに神様の考え方も踏まえて、以下の論点について取り上げたい。
- 「俺の中の奈々生」とは
- 自力で思い至ることが大切
- 物語における十二鳥居エピソードの位置づけと狐の嫁入り
- 神漫画であることの意味
- 巴衛・奈々生・瑞希のキャラクター設定とラストについて
「俺の中の奈々生」とは
悪羅王編の物語の終盤。描写はどんどん観念的になり、モノローグは抽象化され、理解が難しいと感じていた。
悪羅王の体(器)にこだわる夜鳥と巴衛の二人。夜鳥は巴衛を誘惑し、手を差し伸べる。
巴衛が歩もうとする瞬間、巴衛は奈々生の幻影を見る(第24巻第139話)。
だめだよ巴衛
奈々生
一時の感情に流されて自分を捨てないで 道を見失わないで 私が愛してるのは貴方よ
「俺はもうひとりではなかった」
「俺の行く先に奈々生がいる限り俺は自分を捨てない」
俺の未来は 道の先にいるのは 奈々生だ
あの時俺の中のお前が止めてくれなければ俺も自分を捨てていたかもしれない お前がいなければ…
こんな体たらくでは…先が思いやられるな だが奈々生がいる 愛する者がいれば 俺たちの未来に何があろうと 道に迷うことはない
初見では、この一連のやり取りの伝えるメッセージを、なかなか理解することができなかった。
実は、ここはまさに日本の神様の世界が描かれていたのだ。
少しこの場で紹介したい。
そもそも、日本の神道における神は、一神ではない。あらゆる物に宿る。
そして、感謝をする心が大切。
神道には、仏教のような経典も、修行(山にこもる、滝に打たれる、座禅)もない。毎日の生活の中で、わが身を磨き、私欲を捨て、神様に近づいていく。何事も神様のお恵みと祖先の恩によって生かされていることに感謝し、手を合わせるだけ。
言霊や名前、それから、今を懸命に生きることも、神様ワールドの考え方だ。今を最も大切にして懸命に生きるということである。死んでどこにゆくのかが大事なのではなく、生きているあいだにどんな徳を積むかが大事なのだ。「死」に至るまで人は懸命に生き、明るく過ごす「生」を重視する。
そして、神様に近づくためには、自分の心に向き合って、自分で考えることが大事である。
自分の心の中にある神様を信じ、悪戯にすがらない。
「自分の心の中にある神」を信じず、「器」にすがる夜鳥の姿は、自分自身がない、つまり、自分自身の本質を自分で否定しているということなのだ。それが「自分を捨てる」ということ。
ここでいう、「神」は、「自分にとって大切な存在」と言ってもいい。これは、瑞希が語る様子をみるとわかる。
ヨノモリ様
僕はもう孤独じゃありません
僕の心の中にはたくさんのひとが住んでいて
何より奈々生ちゃんが お日様のように僕の心を温めてくれるから
「僕は幸せです」
(第22巻)
第22巻 |
かつてミカゲがいった、愛することは孤独からの解脱であるというのは、心の中に大切な存在ができれば孤独ではなくなるということなのだ。
散々描かれてきた「鏡」は「かがみ」=「かみ」にも通じる。鏡をみて、自分で考えるのだ。安易に答えを他者に求めず、自分の心の声を聞き、自問自答し続けることが大事なのだ。
かつてミカゲが言ったように、自分の頭で考えることが大事なのだ。
「自力で思い至ることが大事なんだ」(第14巻第81話)
第14巻 |
最後の戦いで、巴衛は、自分の心を見つめ、本質を理解した。
「俺の中の奈々生」というのは、つまり、巴衛の心の中にある神様=大切な存在が奈々生だということである。
「俺はもうひとりではなかった」とは、自分の心の中に奈々生がいるから、奈々生を思うだけで心が温かくなり、孤独ではないということだ。瑞希の台詞を借りれば、「自分の中にいる奈々生が心を温めてくれる」ということ。
「俺の行く先に奈々生がいる限り俺は自分を捨てない」とは、巴衛の生きるモチベーションが奈々生であり、悪羅王の「器」に囚われて奈々生と一緒に生きていくために自らが選んだ「人間になる」という道を放棄しないということだ。
思考停止せず「自力で思い至ること」の大切さ
最後の最後で、巴衛は、ようやく神様に近づくことができたのだ。
500年もの間、表面的には神使としてふるまい、努力を重ねてきたけれど、巴衛は「心」を軽視してきた。自分の心を見つめ、本質を視ることを怠ってきた。
だから、神様には近づくことができなかった。「神寄り」でないというのはそういうことなのだ。
おそらく、ミカゲが今まで巴衛を一度も出雲の神議り(かむはかり)に連れて行かなかった(第7巻第39話)のは、彼が本質において「神寄り」ではない妖怪そのものであり、他の神々もそれを見抜いていたからなのだ。
ここで作中で描かれたミカゲの言葉を思い出してみよう。
「自力で思い至ることが大事なんだ」(第14巻第81話)
「・・・まったく もう いつまで経っても手を焼かせるね お前は」(第20巻第119話)
「奈々生さん また巴衛を連れて帰ってきてくれましたね」(第24巻)
「いつまで経っても手を焼かせるね」というミカゲの言葉はダブルミーニングだ。
直接的には、キツネ姿を人型に戻してもらうために大国主に依頼し、出雲に連れて行かねばならないことを指す。
しかし、俯瞰的には、いつまで経っても物の本質を視ようとせず、「神寄り」になれない彼の心の在り方を言っているのだ。
振り返れば、巴衛は、自分の頭で考えることを怠っていた。
過去でも、明らかに雪路と奈々生の中身は違うのに、女は8年経てば変わるという雪路の言葉をそのまま信じ、俺には人間の女のことはわからない、と言って片づけてしまう。
沖縄の巫女のメッセージを誤解し、「人間になること」に飛びついた。
(詳細は、 「神様はじめました」考察 物の本質をみるということ② 沖縄の巫女からのメッセージとキツネ姿になった意義)
さらに言えば、巴衛は、奈々生がどのような想いでその行為をしたか、考えることを怠っている。
再会した奈々生にかんざしを渡して求愛・求婚したつもりになっているのも、過去に奈々生にかんざしをもらって結婚の約束をしたからだろう。しかし、奈々生が過去の巴衛にかんざしをあげたのは、その時の巴衛に何か残してあげたいと思ったからだ。かんざしをあげる=結婚の申し出、ではない。
おそらく、巴衛にとって「ごはんを食べさせる」ことが愛情表現だったのも、一番最初に過去で奈々生に助けられ、かくまってもらった時に、「食べさせてもらった」からなのだ。笹餅と魚を。だから、彼は過去で雪路としてふるまう奈々生に、魚をあげていたが、あれは巴衛としては愛情表現だったのだ。その後彼が笹餅を食べ続けるのも、奈々生にごはんを食べさせ続けるのも。
しかし、奈々生が笹餅をあげたのは、そのとき怪我で苦しんでいる巴衛を元気づけたかったからだ。そして、巴衛も、「食べること」ではなく、そのベースにある、「苦しいときに寄り添い優しくしてもらったこと」が嬉しかったはずなのだ。
彼は自分の心も奈々生の心も理解していなかった。「食べさせること」は体を整えるためだが、それはひいては心の元気にもつながるのだ。先に人間になった霧仁はそれを理解していた。
人間の体は不思議だな 体が整えば心もみなぎるらしい(第20巻)
だから、(奈々生にご飯を作って食べさせているのだから)「俺はいつも素直だ 愛情表現に抜かりはない」と思う巴衛は、奈々生とかみ合わない。妖に食習慣がないというのも伏線で、人間が食べるのは、体、ひいては心の健やかさのためだということを知らないのだ。
第19巻 |
しかし、巴衛は、もし自分自身の心に向き合い、奈々生の心に向き合おうとしていたら、何が大切かわかったはずなのに、それを怠っていたのだ。
奈々生がニコニコしながら巴衛のごはんを食べているのは、ご飯がおいしいこともさることながら、巴衛が手をかけて自分の為にご飯を作ってくれた「心」が嬉しいのだ。巴衛はそれをわかっていない。
散々描かれてきた鏡の描写も意義深い。鏡をみて自分の心を知りなさい、ということなのだ。巴衛が二郎の姿をみて自分の奈々生への気持ちを確認している描写は、まさに「鏡」をみて考えているのだ。
ようやく「本質」の大切さを理解した彼は、第24巻以降、愛情表現も変わっていく。
また、黄泉から戻った後、奈々生にすぐには神使にしてもらえず、野狐の姿であった。そんな彼が、野狐の姿であっても神使の仕事を続けられていたのは、彼が真の意味で「神寄り」になっていたからなのだ。神使の契約をしなければ社にすむのは苦痛であったはずなのに(第8巻)。
(第24巻第142話) |
物語の最後において、巴衛がようやく悟り、まさに「神寄り」になれたのに、「神使」という役職から退くのは、勿体無いかもしれない。けれど、そもそも心があれば、役職や場所に拘る必要もないのだ。どこにいようと、神様は自分の心の中での対話を通じて近づくものだから。
本作品のテーマと十二鳥居編の位置づけ
本作は、当初の印象以上に、日本の神様の世界を描いたものであった。アレンジされてるところもあると感じるけれど、根幹にあるものは日本の神様の世界だ。
「人間になった」という結果だけをみると、ピノキオとも近いようにみえるが、少し違う。ピノキオは、聖書をモチーフとしている。
作中でクリスマスなど西洋の行事が描写されないのも、必然である。
神様ワールドは、舞台設定のために借用されたわけではなくて、結構物語のテーマの根幹にかかわるところなのだ。
以前、この物語は真逆な男女二人の歩み寄りの話しであるととらえた。しかし、それもちょっと違う。もちろん、歩み寄った部分は大きいのだが。
やはり、日本の神話や昔話に近い。十二鳥居はまさにそれを象徴する。十二鳥居で描かれたものは、奈々生だけでなく、巴衛の心を映す鏡でもあったのだ。もっと言ってしまえば、巴衛と奈々生の関係性を映す鏡でもあったのだ。
巴衛は、十二鳥居編で、一度、理解していたのだ。
いろいろ食べ物を出したけれど、奈々生は「食べものにつられて愛のない結婚はしない」のだと。自分の素直な気持ちを言葉にのせて伝えたら、お嫁に来てもらえると。
「ななみは食べものに釣られて愛のないけっこんはしないのよ おにいちゃんはちゃんとななみのことが好きなの?」
(そんなに可愛く聞かれたら答えないわけにはいかないではないか)
「好きだとも これでお嫁に来てくれるかい?」
(なあ奈々生 お前が変わらず笑っていられるように俺は隣にいてやるよ)
「いいよ!」
「これでお嫁に来てくれるかい?」という台詞を改めてきちんと読むと、「これで」という言葉には、いろいろ試したけれど、最終手段として言葉を出したというようなニュアンスである。
そう、巴衛の一連の行動はすべて、奈々生に「お嫁に来てもらう」ことが目的だったのだ。
第11巻 |
おいしいごはんを作って食べさせることも、行方不明になったら体を張って助けに行くことも、お願いされたら女装までして学校に通っていたのも、かんざしを渡したのも、なにもかも、「奈々生にお嫁にきてほしい」からがんばっていたのだ。巴衛自身は自覚していないが。
だから「結婚しない」宣言にショックを受けていたのだ。なんと可愛らしいキツネ様だろう。
第11巻 |
第11巻 |
本作品のテーマも、巴衛の本当の心の声も、なにもかも、「十二鳥居」回にすべてかかれているのだ。
十二鳥居はこの物語全体の縮約版であり、巴衛と奈々生の関係性を映す鏡でもあったのだ。
しかし、十二鳥居を出た瞬間、巴衛は自分がなぜ求婚したのかわからなくなって混乱する。本当は巴衛は鏡に映った自分を見て理解しなければならないのに怠った。なぜかと自問自答するけれど、結局、夢の中の出来事と片づけてしまった。だから、その後も彼の求愛はことごとく受けれられないのだ。素直な気持ちを言葉にのせていないから。
作者が最初から参進の儀を描くと決めていたのも頷ける。まさに最終目標は、「狐の嫁入り」であったのだ。そこに向かっていく話だったのだ。それを、あんなに楽しいコンテンツとして描いてくださって感謝だ。
だから思えばアニメ第二期で十二鳥居エピソードを最終回にしたのも、そしてOVAで二人の結婚前夜を描いて完結したのも、物語のテーマとして、全部意味のあることだったのだ。納得である。
「神様はじめました」は「神漫画」ということ
「俺は人間の女を好きにはならない」という巴衛の台詞は大嘘であった。振り返れば、彼はほぼ最初から奈々生が大好きで、一連の行動も奈々生にお嫁に来てもらうためだった。でもその心に向き合っていなかっただけなのだ。
そして、沖縄編での、「巴衛は思慮深くて堅実な妖だから…」(第19巻)という奈々生のモノローグは正しかったろうか?
いや、巴衛は、感情に任せて行動し、事態をこじらせることの方が多かったのではないか?
感情に任せてすぐ狐火を撃ち放ち、進化の水を一気飲みしたり、キレて夜鳥の頭を吹き飛ばし、最悪の事態を引き起こしたり・・・
そう、本作品は、登場人物の台詞をそのまま真実と受け止めてはいけないのだ。
そもそも、本作品は、主人公二人の心情の核心部分について、説明文が敢えて省略されている。言語化されていないため、何を意味するのか、初見ではわからない。
だから、読者も、解釈するときは、「他者の言葉」たるキャラクターの台詞に惑わされず、「誰かの鏡である誰か」、すなわち、対になるキャラクターをみたり、表情その他の描写をみて理解しなければならない。
読者も、「私欲を捨て物事の本質を視なければならない」のだ。
しかも、上記に引用した巴衛がショックを受けているシーンのように、普通なら読み飛ばしてしまうような、小さいコマにこそ核心が隠されている場合もある。一コマ一コマに無駄がないのだ。
なんだかとても面白い手法で描かれていると思う。これはコマ割りや台詞、絵柄、全てひっくるめた、漫画というコンテンツならではの楽しみ方だろう。漫画を読む楽しさを思い出させてくれる作品だった。鈴木ジュリエッタ先生は奇才だ。
巴衛・奈々生・瑞希のキャラクター設定とラストについて
本作品の物語のテーマ上、巴衛があのような人物設定(狐設定?)となるのは、必然であろう。「巴衛の心の成長物語」であったわけなのだから。
彼のビジュアルが麗しいのも伏線であろう。少なくとも私は彼の外見から、彼の本性や物語で描かれた不可解な行動の数々を理解するまで非常に時間がかかってしまった。いわば、私は、巴衛と同様、「私欲に囚われずに物事の本質をみること」ができていなかったのだ。かつての奈々生がそうであったように、彼を普通の人間の男の子と同じようなものとして理解したがっていたのかもしれない。
実は作者は答えを提示していたのに。彼のキツネ姿はまさに彼の本質を描いている。もともと彼に「人のような心」を期待してはいけなかったのだ。
だって、キツネだから。
そして奈々生が「神様」設定だったのも納得だ。まさに巴衛の心の中の「大切な存在」ということの象徴なのだ。
瑞希が自らを「聖神使」と言っていたが、頷ける。
まさに彼こそ「神寄り」なのだ。私欲に囚われず、物事の本質をみる。
神と神使なら彼の在り方こそ本来あるべき姿である。巴衛の本性を考えれば、さぞかし奈々生が心配であったろう。
そして、読者に「神」とはなにか、「神使」とは何かを教えてくれる存在でもある。
巴衛は神使という役職にあっても、その実が伴っていないのだから、神使がなんたるかについて、巴衛の台詞をあてにしてはならないのだ。
瑞希の「彼女のそばにいればもう一度神使(ぼく)になれる」(第4巻)という台詞と、巴衛の「神使という役職は実に窮屈で」(第13巻)という台詞は、自らにとって「神使」であることがどういうことか、実に対照的であることを示す例である。
それでも、巴衛の手をとり、奈々生は社を出てしまう。
瑞希がひたすら哀れである。
あれほど心を尽くしたのに、彼の「神様」=「大切な存在」は巴衛が連れ去ってしまう。
だからこそ、物語の神たる作者は、最後に奈々生を社に戻したのだろう。
続き
「神様はじめました」考察 物の本質をみるということ④「主人公」は誰なのか?なぜ神寄りの方々は巴衛が好きなのか?