本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
今回の考察内容
「今は神と神使の契約だがそんなもの早くなくなればいいと俺は思っている」(第24巻第142話)という台詞の意味と位置づけが気になって仕方ない。そこに神使の契約の位置づけについて、巴衛の本音が見えているように思うからだ。
そして、この時の一連の会話から浮かび上がる巴衛のあり方について改めて考えてみたい。
「ずっと一緒の約束のしるし」(第2巻第12話)
「今は神と神使の契約だがそんなもの早くなくなればいい」(第24巻第142話)
1. 神と神使の契約の位置づけ
「ずっと一緒の約束のしるし」(第2巻第12話)
「神使の再契約だ」(それはずっと一緒の約束のしるし)
第2巻第12話 |
このモノローグの主体が誰かは不明だが、いずれにしても、「神使の契約」は、巴衛にとっては「ずっと一緒の約束のしるし」なのである。
それは、13.5巻に掲載された番外編からも明らかである。ミカゲならずっと一緒にいてくれると思ったから「神使の契約」を締結したのだ。
「今は神と神使の契約だがそんなもの早くなくなればいい」(第24巻第142話)
「今は神と神使の契約だがそんなもの早くなくなればいいと俺は思っている」(第24巻第142話)
第24巻第142話 |
この台詞には、その当時の「神使の契約」の位置づけについて、巴衛の本音が表れている。
この台詞の直前まで、巴衛は奈々生に神使に戻すよう言っている。
→奈々生が瑞希や他の皆を思いやってミカゲ社を出ることに対して気持ちが揺れる奈々生
→神と神使の契約締結
という流れだ。
「ずっと奈々生の神使であり続けたい瑞希」と、
「とりあえず直近は神使に戻りたいけど将来的には神使をやめたい(なるべく早く)」
と思っている巴衛の対比でもある。
火の山で覚醒した巴衛は、野狐姿でもミカゲ社で過ごすことができており、神使の仕事もしていたから、ミカゲ社で快適に過ごすために神使に戻ったわけではない。
(第24巻第142話) |
ではなぜ神使に戻りたかったのか?
形式的には、勿論、それが彼の現在の役職だから役職に見合う姿に戻りたいということなのだけれど、
実質的には、やはり巴衛にとっては神使の契約は「ずっと一緒の約束のしるし」(第2巻第12話)なのだ。
だから「神」である奈々生とずっと一緒にいる約束のしるしとして、「神使」に戻りたいのだ。
しかし、巴衛はゆくゆくは「神と神使の契約」という関係性を変えたい。だからこそ、
「そんなもの早くなくなればいい」
という台詞につながるのだ。
これに先立つエピソードでは、奈々生が「人神ではなく人間の娘として生きていく」ようにとのミカゲの言葉を受け、奈々生と瑞希は動揺しているのに対し、巴衛はいたって冷静である(第24巻第141話)。むしろ「いつまで」現状維持なのかが気になっているようでもある。これも、巴衛は神使という立場に拘りがなくなっていることの証左である。
第24巻第141話 |
第24巻第141話 |
また、巴衛は第25巻で、結婚式を「契約の儀式」と表現している。結婚式を催すのは、奈々生が幸せに笑う顔を彼が見たいからだ(第25巻第145話)。
第25巻第144話 |
巴衛にとっての恋の成就とは、結婚そのものではなく、「共に生きていくこと」である(「俺にとっての恋の成就とは共に生きていくことだからな」(第25巻第145話))。
「神使の契約」も「結婚」も、巴衛にとっては、「ずっと一緒の約束のしるし」という点では延長線上にあるのだ。
そして、鳴神編の終わりの段階では、「神と神使の関係」を認めたから神使の契約をしたけれど、物語の終盤では、彼はその関係性を変えたいのだ。
だからこそ、「早くなくなればいい」という言葉が出てくるのだ。
※ 巴衛の一連の行動の原動力は、奈々生にお嫁に来てもらうことである(「神様はじめました」考察 物の本質をみる(3)「俺の中の奈々生」 「神漫画」であることの意味)。
瑞希との対比
上記の通り、「神使の契約」は、巴衛にとっては、「ずっと一緒の約束のしるし」である。「神使」という在り方も彼にとっては「役職」である。巴衛は神使であることは「手段」にすぎす、だから最終的に手放してしまえるのだ。
一方、瑞希にとっては「神使」であることは自分そのものである。「神使」として生まれた彼はまさに「聖神使」である。したがって、瑞希が神使をやめることはまずもって想定し難いのである。
2.巴衛のあり方
「ズルい男」(第18巻第102話)
「お前が泣こうがわめこうが俺は人間になるぞ」(第24巻第142話)
という直後の台詞は、瑞希や周囲を思いやって決断に揺れている奈々生の手をいわば引っ張っているのだ。
瑞希を思いやって迷ってても、巴衛が人間になったら奈々生はついていかざるえを得ない。巴衛が一番だから。
実はこれが「ズルい男」(第18巻第102話)の回収である。
「ズルい男」というのは、雨が降るときいていたのに奈々生に教えず傘を一本だけ持ってきて相合傘に持ち込んだという可愛いエピソードである(第18巻第102話)。
第18巻第102話 |
*************************
作品のテーマからして、「人間になる」というのは、単に「器」を人間に変えるだけでなく、人の間に入って生きることにより、「心」も人間になるということ。
人間になった巴衛が人間社会で生きていくというのは当然。むしろ、最後は目的と手段が逆転して、人間の「心」を知りたいから人間になる。
巴衛が人間社会で生きていく以上、巴衛と一緒に生きていくと決めた奈々生も、ミカゲ社を出て人間社会に戻らなければならなくなった。瑞希と離れるのは寂しいけれど、まさに「選択」をしたのだ。奈々生の進む道の「その先にいるのは巴衛」だから(第24巻第138話)。
だからやっぱりこの二人の関係性はというと、24巻までは、基本的には、
「巴衛が大切だから思いやり、背負い、支えたい奈々生」と
「奈々生に一緒にいてほしくてその手を引っ張り続ける巴衛」。
奈々生にずっと一緒にいてほしいのは瑞希も同じ。しかし、瑞希の場合は彼が奈々生を見守り支える立ち回りなので、最終的には飛び立ってしまう彼女を見送る立場になる(第24巻第142話)。
「狐の習性」(第15巻第89話):囲い込み
巴衛のやっていることは本質的には奈々生の囲い込みである。付き合う前から他の男を排除し、「触るな」と言い、海でも合コンでもどこへもついていく。結婚式のときですら、二郎から傘で奈々生を隠している。
まさに大事な物を穴を掘って隠す「狐の習性」そのものである。
第15巻第89話 |
「狐の習性か あいつは大事な物を誰にも見つからない様に仕舞いこむクセがある」(第15巻第89話)
しかし、欲しいものを素直に希求するという彼の本質であり、奈々生が惹かれるものもおそらくそこにあると思うので、仕方ない・・・。だから「ズルい男」。
もっとも、巴衛は、奈々生が最終的にミカゲ社に還るのをサポートするから、優しさもある。それは、巴衛が奈々生の心の中に自分以外の大切な存在がいるという在り方、すなわち、「みんなの奈々生」を受け入れられたからなのだ。
「進化の水」一気飲み事件(第20巻第117話):「思慮深い」?
巴衛が進化の水を一気飲みした時(第20巻第117話)は、将来のプランはノープラン。やはり思慮深く無い。むしろ一時の感情に流されて反応することが多い。
この進化の水を飲んだ時点では、様々な論点が解決してない。
- 人間になったら神使でもなくなるのにどうするつもりだったのか?
- 奈々生と瑞希は神と神使の契約で繋がってるのにそれでいいのか?
- 奈々生に神様を辞めてもらうつもりなのか?
- 社会的には高校二年生の二人。経済的にもどう食べていくつもりなのか?
いろいろ論点あっても巴衛が人間になったら奈々生としてはついていく他ないけど、奈々生の気持ちの整理がついてないのにそれでいいのかという疑問が…。まさに「心」軽視。だから狐にされてしまうのだ。
第20巻第117話 |
大国主様の申し出に一旦ストップかけたのはやはりミカゲ様の愛。あの時点でも様々な論点が残ったままだ。
それにしても
「人間になる=神使でなくなる」
は理解していたから、
進化の水を一気飲みした時も、早く人間になって関係性を変えたい=奈々生をお嫁に欲しかったということだ。
だから
「お前に関しては機が来れば速やかに為すべしだ!」(第20巻第117話)
という台詞が出るのだ。
前提としてやはり「妖と人との婚姻」は巴衛の望む恋の成就の形ではないという価値観があり、それはずっとブレてないのだ。
巴衛にとっては恋の成就とは「共に生きること」なのだ。
巴衛は、奈々生と一緒に歳を取って、一緒に変わっていきたかったのだ。
「凝り性」(第20巻第116話)
第20巻第116話 |
「凝り性…だなお前は…呆れる」(第20巻第116話)
人間になりたいと言いだして図書館にこもって本をうず高く積み上げて読み漁る巴衛に対して、鞍馬が投げかけた台詞だ。直接的には読書にふける様子を指すが、俯瞰すれば、巴衛の物事に対する向き合い方自体を「凝り性」と言っているのだ。
人間の「心」を知りたい、自分も変わりたいからと言って、本当に「何もかも捨てて」人間になるのは、まさに巴衛の「凝り性」な性格の表れなのだ。
だって、大切な存在がいて温かい状態になるだけなら「妖」状態でもできるのだ。瑞希のように。
また、人間に化けて人の間で揉まれることでも人の「心」を学ぶことは可能だ。鞍馬のように。
にもかかわらず、人間になろうとするのは、まさに巴衛が「凝り性」であるからに他ならない。霧仁が言っていた、「人間の体の不便さ」も体感したいということなのだから。
なお、鞍馬はその後巴衛の生き方を「何もかも捨てて人間界で生きる方を選んだ」と評している(第25巻第147話)。まさに、巴衛の生き方はいわば極端と言えるほど「凝り性」なのだ。
「毎日勉強しつつ」(第2巻第9話):目的のために努力を惜しまない
第2巻第9話 |
「神も我らも基本食事の習慣はないのです 人のように飢えるということはありませんので」「奈々生さまが生身の体ゆえあれで巴衛殿も毎日勉強しつつ料理に励んでおられるのです」(第2巻第9話)
「人になって奈々生のことがずっとわかるようになってきた」(第25巻最終話)
巴衛の欲望は「求める」方向に働くのだ。だから、彼は、ほしいもののために、努力を惜しまない。奈々生関連の課題は人間に関するものだからだろうか、巴衛は妖力(不思議な力)に頼るだけでなく、時には勉強し、手を動かすことを惜しまないのだ。
- 奈々生が生身の体のため、毎日勉強しつつ料理に励む。
- 行方不明になったら体を張って助けに行く。
- お願いされたら女装までして学校に通う。
- 同じ目線で人間界に残りたいので学校の勉強を頑張る。
- 奈々生のことをもっとわかるようになるため、人間になる。
10年後の巴衛は営業職に就いているようである。巴衛は凝り性であり、図書館で本を読み漁る描写からも、籠って何かを作ったり、研究するほうが向いてそうなのに、敢えて営業職を選んだのは、やはり人の間に入って人間の「心」を学ぶ為なのだろう。
巴衛は「頭が良くて要領がよくて」(第20巻第102話)、何でも器用にこなし、奈々生より100倍優秀かもしれないけれど(第24巻)、彼は魔法使いではなく、何かを獲得するためにひたむきに頑張るのだ。
彼の一見完璧に何でもこなすようなありさまは、努力の賜物でもあるのだ。
「いつまででも待つ」(第17巻第100話):一途で辛抱強い
「「その時」が来たら俺の妻になるとこのかんざしに誓った その時とは俺が人間になった時かもしれないしもっとずっと先かもしれない それでもいい 俺はいつまででも待つ」(第17巻第100話)
目的達成のための揺るがない意思の強さともいえるし、願いを素直に希求するという少年らしい純粋さの表れともいえる。
「とても耐えられぬ」(第20巻第117話):繊細
「そして俺もこんな風にそんなお前を眺めているのかと思ったら…とても耐えられぬ」(第20巻第117話)
「巴衛ってああ見えて私なんかよりずっと繊細なんです」(第21巻第124話)
巴衛は繊細な面も持ち合わせている。
「幼気な狐」(第20巻第119話)
まさに幼気な狐様だ。