2020年9月6日日曜日

「神様はじめました」雑感 同じことを繰り返す神様とキツネ様

 本記事は、「神様はじめました」(鈴木ジュリエッタ)の考察記事です。

作品の内容に関する感想を記載するという記事の特性上、ネタバレを含みますので、ご注意ください。



※ あくまで個人の感想です。



キツネ様の求愛もそうだったけれど、神様も同じようなことを繰り返している。

奈々生は巴衛を思いやり、巴衛を心配して捜し、非力でも周りの助け(ご縁)を得ながら奮闘し、手を差し伸べる。そしてその手をとる巴衛。奈々生=巴衛の神様(139話の最後の火の山で羽衣をまとう奈々生の姿は天女を彷彿させ、まさに奈々生が巴衛にとって神様=大切な存在であることを象徴するもの。)
(鳴神編、過去編、火の山)


【過去編】

川辺で巴衛を捜す。【子ども姿】
巴衛にかんざしを渡す。

※ 巴衛、助かる

【鳴神編】

奈々生、ミカゲ社に隠れた巴衛を捜す。【子ども姿】
巴衛に手を差し伸べる。打ち出の小槌で元に戻す。

※ 巴衛、助かる

【火の山】

奈々生、巴衛を捜す。
奈々生、黒麿さんの心を救う。
巴衛に手を差し伸べる【野狐姿】

※ 巴衛、助かる

【物語全体】

巴衛を思いやる奈々生。寿命が縮んでも言わない。招き猫回も大黒柱になろうとする。
巴衛は思いやってほしいわけでも、背負ってほしいわけでもない。
頼ってくれずに拗ねる。最後は見事に頼れる男に成長、奈々生も安心・・・。


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鳴神、過去、黄泉、全編通して浮かび上がってくるのは、奈々生の根底にあるのは巴衛を「守りたい」「助けてあげたい」という気持ちでそれが彼女を強くし輝かせている。恋愛要素を排除して純粋にみたときにそれはやはり母性本能だ。イザナミ様がいった「母は強し」はまさにそう。霧仁母・亜子が非力でも手を差し伸べて救おうとする姿も鏡みたいなものだ。霧仁も、いわば反抗期、素直じゃない子どもだけど、亜子が見捨てないで手を差し伸べてる姿とシンクロする。また、式神・護の名づけにも表れてる。


背負われて生きるなんてまっぴらだ、という巴衛の台詞の裏返しはやっぱりそういう目線で見られてるのがわかってるからだろうし。


その前提で読むと一連の台詞や行動パターンも理解しやすい。

これは「頼りたい女の子」の話しではない。自分が「守りたい女の子」の話しだ。そして男の子は(自分の方がしっかりしていると思ってて)自分が守りたい、頼られたいのにそうしてくれないからモダモダしているのだ。

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今にして思えば、巴衛もいつも同じことを言葉を変えて言っている。

「お前に背負われて生きるなど考えただけでイラつく」(第2巻) 
(なあ奈々生 お前が変わらず笑っていられるように俺は隣にいてやるよ)(第11巻)

「俺はお前と一緒に笑って同じ時を過ごしたいだけだ お前に思いやってほしいわけでも背負ってほしいわけでもない お前にとって俺は辛い時に辛いと泣き言一つ聞かせられないような甲斐性のない男か」(第22巻)

「お前が金銭に憂いていれば俺が賄うだけのこと 夢を見たいなら見せてやる だから望む人生を歩け どこだろうと隣には俺がいる 俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話より)

物語が進むにつれて立場は変わっていったけれど、お互いがお互いの一番大切な存在ってこと。素敵だ。