作品の内容に関する感想を記載するという記事の特性上、ネタバレを含みますので、ご注意ください。
今回は、巴衛が奈々生のためにつくるごはん(以下「ともえごはん」)は何を意味するのか?について、考察します。
※ あくまで個人の感想です。
ともえごはんとは
ともえごはんは、巴衛の奈々生に対する想いだったり、関係性を象徴するものだ。
作中の描写例
とにかくごはんのシーンが多いので、気になったものだけ幾つか紹介したい。
- 鞍馬登場篇・・・はじめてともえごはんが意識的に描写されたのは、奈々生があらぬ疑いをかけられてクラスで孤立しかけたときのこと。このとき奈々生ははじめて「私のこと想ってくれるのは世界でただ一人この狐だけかもしれない」と涙する(第2巻第7話)。これは、第24巻ラストで、「ほんとうにこんな夢みたいなひとは人間界でもきっと私の隣にしかいません」(第24巻第143話)ともつながる。
- 巴衛は社を維持できるくらい稀有な妖力をもっていて、その辺の妖怪をキャンデーに変化させることもできるのに、奈々生のごはんは手づくりしている。鬼火曰く、もともと神も巴衛も鬼火たちも、食習慣ないのに、奈々生が生身だから毎日勉強して料理しているのだ。
- お弁当を食べてもらえずショックを受ける巴衛・・・気持ちを受け止めてもらえずショックを受けているのだ。
- 錦編や過去編・・・奈々生が巴衛のごはんを食べられない様子が描写されている。当時離ればなれだった二人の関係を象徴している。
- 過去編導入の、巴衛が倒れた日は、奈々生はカップ麺を食べている。これから巴衛としばらく離ればなれになる予感を感じさせる描写。
- 過去編最後の第101話では、呪いから復活した巴衛が早速奈々生のごはんを作ってから出かけている。これも二人が再会したことの象徴であると同時に、巴衛の愛情の証だ。おいしそうに食べている奈々生が可愛らしい。
- 雪路の食事・・・過去の巴衛は雪路のために食料採集はするけど、自分では調理しない。村人に委託していた。作中、巴衛が料理するのは一貫して奈々生の為だけなのだ。これも、巴衛の愛した女性が奈々生一人だけということの象徴である。
- 未調理の生魚・・・過去の巴衛は、奈々生に一匹の魚を調理せず、そのまま丸々渡して、「いらない」と速攻で拒否されている。これはダブルミーニング。まず、このときの奈々生は巴衛の求愛を受け入れるつもりがない。雪路と巴衛の縁を邪魔しないように。そして、未調理の魚は、「俺のものになれ」という、生々しい台詞の象徴。これでは受け入れられないから、きちんと調理した言葉が引き出されるのだった。
- 人間になりたくなったときの鞍馬との会話(第20巻)・・・「奈々生に晩ごはんをつくってやることはできる」。なお、「今晩は水炊きにしよう」という台詞は、天狗である鞍馬に対する嫌味だ。
- 奈々生と人間になった後の生き方の話し合いしているときも料理中だった。
第20巻 |
そして、ともえごはんが最後に出てくるタイミングは、神様生活最後の朝というのが感慨深い。最後のともえごはんの描写。奈々生のお膳だけがあって、巴衛は奈々生に向かい座って給仕している。
食習慣のない巴衛が神様である奈々生の為に料理してきたのもその日が最後だ。今後は2人で一緒に食べる為に作るのだろう。
また、想像だが、ともえが定時退社条件に転職した理由は、奈々生の晩ごはんを作るためだろう。
最初から最後まで、ともえごはん自体が、巴衛の奈々生への想いだったり、愛情だったり、二人の関係性を示している。
実は、ともえがご飯を通じて愛情表現しているのには理由があるのだ。別記事に委ねたい(「神様はじめました」考察 なぜ別人と気づかないのか? なぜ巴衛はごはんで愛情表現するのか? 奈々生にできて巴衛にできなかったこととは?)
瑞希との対比
巴衛は奈々生にご飯を作って食べさせるのに対して、瑞希はお酒を造るのだけれど、奈々生は未成年だから大人になるまで飲むことができない。そして、後半で、瑞希の作ったお酒は、ミカゲさんが飲んでいる。後々、ミカゲさんが瑞希を引き取るということにつながる。
夜鳥との対比
夜鳥はよく食べてるけど自分では作らない→愛を与えられない(誰からも感謝されたことがない)
巴衛はご飯を作って食べさせる→愛を与える(奈々生を愛したことで救われた)
第64話の描写はまさに対比。
霧仁をおもって母が作ったレバニラ炒め。それを横取りする夜鳥。その後の展開を象徴するような出来事だ。
一方巴衛は奈々生を思ってハンバーグを作っている。巴衛と夜鳥が対比される関係にあり、今後巴衛と夜鳥の対立がありうることを予感させるエピソードだ。単にほっこりエピソードではなかったのだ。
そして、助が雪路用の食事を横取りしているシーンも意味深だ。助がその後雪路の死にかかわることの伏線だ。
食べるシーンのメッセージ性
誰かのお腹を満たしてあげることは原初的な愛の表現だ(母と子の例)。そして、誰かが誰かのためにつくったご飯を奪うということはその者の収奪性を示すものでもある。
毛玉は、すごくまずそうに、悲しそうに「喰って」いる。たぶん泣きながら。愛と無縁の、まさに毛玉こそ孤独や虚無のいきつく先を体現する者なのだ。
霧仁が母上のつくった料理をたべず、誰か知らない人の作った缶詰を食べて喜んでるのも意味深。母上の愛情を素直に受け止めていないということだ。
それに対して、ななみは本当においしそうに食べる。愛し愛される者のシンボル。
巴衛の努力は報われるのか
捕った生魚そのまま「食え」・・・多分、人間の食習慣自体は知ってるが調理が必要だとわかってない
↓
食材を採ってきて他の人に料理させる・・・人間用に調理が必要だとわかったが自分ではやらない
↓
料理の本を見て自分で料理するように
巴衛自身も変わっていった。
魔法使いのように何でもできるわけではなくて、努力している。
料理の研究をしたり、人間社会で生きていくために学校の勉強したり、果ては人間になったり・・・
その努力が全て奈々生に向けられたものだというのが、とても可愛らしい。まさに、巴衛の愛情表現は「行動」で示されているのだ。
しかし、巴衛は残念なことに大切なことを忘れている。
素直な気持ちを言葉で伝えるということをだ。
「俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」という現代の巴衛の素直な気持ちがきかれるのは、なんと終盤の第24巻最後のエピソードである。
これがないばかりに二人はすれ違い続けるのだ。