2020年10月19日月曜日

「神様はじめました」考察 十二鳥居が映すもの 三人の関係性と二人の関係性

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



十二鳥居は奈々生の過去の記憶を舞台に、それぞれがそれまでの記憶を整理し、夢として見ている。本物語における、巴衛、瑞希、奈々生の関係性を映す鏡だ。

「夢」と言う位置づけなのは、奈々生にとっては夢の中、自分にとっても・・・というモノローグからも伺える。


巴衛、瑞希、奈々生の関係性


巴衛の「心」軽視、瑞希の優しさ、奈々生の「男を見る目」のなさ

十二鳥居にいる小さい奈々生は、高校生奈々生が小さい頃の記憶を追体験している。

巴衛が奈々生の過去を知りたがってそのまま奈々生に過去の辛い記憶を体験させるのは、彼女の「心」を無視する行為であり、酷いのだ。

だからこそ瑞希は見ていられないといって奈々生に手を差し伸べる。でも奈々生は瑞希の手を取らない。まさに物語における、巴衛、瑞希、奈々生の関係性を表している。

巴衛の「愛と自由」への強すぎる欲求に起因する気遣いのなさ(いわばエゴ)により、奈々生が傷つき、瑞希が助けようとし、でも最終的に奈々生は巴衛の手をとってしまうのだ。つまり奈々生は「男を見る目がない」のである。

「神様はじめました」考察 十二鳥居に表れた奈々生・巴衛・瑞希の関係性 三つ巴の関係性の見直し


巴衛と奈々生の関係性


途中から巴衛と奈々生の二人だけになるので、その後に映し出されるのは彼らの関係性だ。


巴衛の願望と価値観:「愛」、「物」

奈々生の笑顔がみたくて食べもの等を出す巴衛はやはり即物的であり、物質主義者である。
また、巴衛の求めるものは「愛」である。巴衛が夕日に見るものは、お日様、すなわち、奈々生であり、彼の心の中での奈々生の存在が大きくなっていることを示している。

「好きだとも これでお嫁に来てくれるかい?」という台詞は、いろいろ試したけれど、最終手段として言葉にのせたということ。

人さらいから助けたり、食べさせたのも、お嫁に来てほしいから。だから直前奈々生の「結婚しない」宣言にショックを受けていたのだ。

第11巻

頭の中のモヤモヤを認識するという言葉の力を考えると、やっぱりここでも巴衛が「お嫁に来てくれるかい」と言語化したことは、巴衛のその後の行動に影響を及ぼすのだ。後のガマ子の台詞にショックを受けたことに繋がっていく。


奈々生の願望と価値観:「家族」、「心」と「言葉」

奈々生も一緒夢をみているから、奈々生の本音も出てる。

奈々生は「家族」を欲している。奈々生が夕日に見るものは失った「家族」である。

また、「心」と「言葉」を重視している。「ななみは食べものに釣られて愛のないけっこんはしないのよ おにいちゃんはちゃんとななみのことが好きなの?」も、過去編の奈々生の台詞と同じ。「心」を「言葉」で伝えてほしいのだ。

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十二鳥居で見た大きな夕日に二人の求めるものの微妙な違いがよく出ている。


奈々生目線

⇒みんな帰るタイミングの合図だからよく見ていた

⇒奈々生が夕日に見るものは失った「家族」


巴衛目線

⇒夕日=お日様=奈々生

⇒奈々生の存在が彼の心の中で大きくなっている

⇒巴衛が夕日に見るものは「愛」

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奈々生が「心」を軽視されても巴衛に手を差し伸べ続けるのは巴衛が「家族」だから。巴衛との恋愛も「家族」をつくりたいという願いの一環。巴衛を連れて瑞希のところへ還るのも社で新たな「家族」をつくるため。

巴衛が求めるのは彼個人の「愛」であり、「家族」と言われても多分心には響いてない。


ある熱量があったときに、それを「みんな」に向けるか(日の光)、「1人」に向けるか(火)の違いなのだ。

どちらが良いというものでもない。「日の光」だけでは熱量が足りないから料理は作れないけれど、「火」なら料理ができる。


恋愛を度外視すれば一緒にいて楽なのは瑞希の方なのに、それでも敢えて奈々生が巴衛の手をとって出ていくのは、まさに巴衛の「熱い想い」(火)が新しいものを生み出す力をもっているからだろう。彼女の「自由」を実現したり、新しい家族を作ったり。

社を出るのは多分に「愛と自由」のためで、

社に戻るのは奈々生の家族を作りたいという願いの為なのだ。

愛+家族+意思+自由が

最終的に始まりの社で一つになったということだろう。