本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
「俺も変われるのか」(第23巻第135話)とは
「俺も変わるのか?」、「悪羅王のように変われるのか?」
「変われるよ 巴衛がそう望めば何度だって生まれ変われる」
(第23巻第135話)
「俺も変われるのか」(第23巻第135話)という台詞は、「俺も変わりたい」という願望の裏返しである。
巴衛が「蝶柄」の着物を着たり、「花柄」の草履を買ったりしてるのは、彼が求めてるのは花(奈々生)や蝶(ミカゲ様)だということだ。「星柄」(変わらないもの)はタヌ子さん達に似合うと言いつつも、自分では買ってないのだから(第11巻第65話)。「花」も「蝶」も変化する生き物という点では同じである(「神様はじめました」考察 花① 花柄・星柄・蝶柄(第11巻)が示すものとは なぜ巴衛は花や蝶を求めるのか?)。
巴衛が変われるものである「蝶」や「花」に惹かれ続けたのも、「変わりたい」という願望が根底にあったということなのだ。
なぜ巴衛は「変わりたい」のか?
作中、巴衛が「変わりたい」と思うようになった具体的な理由は説明されていない。
なぜ巴衛は「変わりたい」と願うのか?
変わりたい理由① 奈々生を「わかりたい」
奈々生との関係では、奈々生をもっとわかりたいという理由があるだろう(詳細は、「神様はじめました」考察 花②「俺の知らない奈々生」 巴衛はなぜ変わりたいのか)。
沖縄修学旅行後に人間になりたいと言いだしたとき、巴衛は、奈々生が喜んでいるかはわからないものの、「人になればもっとあいつのことがわかるはずだ」(第20巻第116話)と発言している。巴衛は、自らが奈々生を全然わかっていないことに気が付いていて、奈々生のことを理解したいと思って「変わりたい」と思うようになるのだ。
第20巻第116話 |
人間になった後の巴衛が、「人になって奈々生のことがずっとわかるようになってきた」と言っている(第25巻最終話)ことからも、巴衛が人間になって「変わりたい」と思う動機の一つとして、「もっと奈々生のことがわかりたい」という欲求があったのだろう
第25巻最終話 |
変わりたい理由② 「自由に生きたい」
より根本的には、巴衛は「自由に生きたい」から変わりたかったのだ。
「欲望のままに生きる」という台詞(第1巻)も「自由狐」という言葉(第1巻)も、彼が求めていたのは「自由」に生きることだということだ。「自由でありたい」という願望での裏返しだったのだ。
巴衛自身が「自由に生きること」を望んでいるからこそ、悪羅王や奈々生に「好きなものになれ」(第23巻第137話)、「望む人生を歩け」(第24巻第143話)、「生きたいように生きろ」(第25巻最終話)という言葉をかけるのだ。
しかし、実は、巴衛は様々な点で、実は不自由だったのである。
- 「変わらない」妖怪・・・巴衛の本質は「荒ぶる火」であり、いわば自然現象である。自然現象であるがゆえに、「変わらない」。しかし、「変わらない妖怪」という設定自体が精神性の束縛であり不自由である。
- 「荒ぶる火」は防火・消火対象・・・「巴衛」の名前は、水で中のものを守るという意味であり、彼自身が防火対象であることを示す。瑞希(水)による見張りを受けるのはつまり防火対象ということなのだ。
- 鎮火され続ける・・・「荒ぶる火」であるがゆえに水(瑞希)や日(奈々生)に鎮火され、浄化され続ける。これも精神的に不自由である。
- 「神と神使の契約」・・・自制がきかないからということで神使契約で縛られる。これもまた精神的に不自由なのだ。「神と神使の契約」で抑制されているのは彼の欲望であり、「自由意志」である。
- 「一時の感情に流されて」暴走する・・・感情に振り回されているという点で不自由である。
「自由」の本質は感情のままに暴れることではない。暴走する火は水で消火されてしまう。
巴:湧き出した水がうずを巻いて外へめぐる衛:周りにいて中のものを守る
巴衛自身が変わらない限り、常に誰か(水)に見張ってもらうか、ケガレ(=負の感情)にはまり自分を捨てる羽目になる。
(ずっと一緒にいた 奴のことなら何でも知ってると思っていた そして俺自身のことも…でも違ったんだ)(第23巻第135話)
自分自身のことを知らなかったという台詞に伺われるのは、自身の不自由なあり方に気が付いたということなのだ。
世界は自分の認識でできている。
「変わらない」と思っていた悪羅王が「変わった」ことを見て、「変われる」ことを知り、「変わらない」と思っていた自分の思考が、「妖怪は変わらない」という既成概念にとらわれていたことに気が付いたのだ。
このとき、巴衛は「自由」だと思っていた自分が、その本質、すなわち、心において、実は「不自由」であったことを知ったのだ。
巴衛は実は自分のあり方が「不自由」であったことを自覚し、真の自由を求めて「変わる」道を選択するのである。
それが「荒ぶる火」から「鎮められた火」になるということであり、メタ的には「自制心の獲得」である。
すなわち「制御された火」こそが真に自由であり、最終的に巴衛は名実ともに「自由狐」となったのだ。
その意味で、最後の決戦を経て、巴衛は「変わった」のである。
これが神話的に解釈した場合の本作のテーマの根幹であろう。
まとめ
巴衛が亜子を助けた霧仁を見て心揺さぶられたのは「変わらない」と思っていた悪羅王が「変わった」ことを見て、「変われる」ことを知り、「変わらない」と思っていた自分の思考が、実は「妖怪は変わらない」という既成概念にとらわれていたことに気が付いたからだ。
このとき、巴衛は「自由」だと思っていた自分が、その本質、すなわち、心において、実は「不自由」であったことを知ったのだ。
世界は自分の認識でできている。自分自身のことを知らなかったという巴衛の台詞に伺われるのは、自身の不自由なあり方に気が付いたということなのだ。
巴衛は実は自分のあり方が「不自由」であったことを自覚し、真の自由を求めて「変わる」道を選択するのである。