2020年10月17日土曜日

「神様はじめました」考察 花火が海面に映る沖縄の情景は何を象徴するのか 巴衛・奈々生・瑞希、三人の関係性の本質とは

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


奈々生・巴衛・瑞希:三つ巴

巴衛が瑞希が神使になったことに反発するのは、自身の「誰が相方か選ぶ自由」が奪われたからだ。しかし、奈々生と瑞希なる関係性は巴衛が口出しするものでもない筈である。

その後も瑞希を邪魔に思うのは、瑞希(水)が巴衛(火)を監視し鎮火するからだ。それは瑞希が奈々生の意思を守る為だ。

奈々生の意思の強さと巴衛の自由への強い欲求は時として反発し合い、決定的な破滅を招き得る危うさをはらむ。

そこに瑞希という第三の力が加わることによって、この3人の思惑がそれぞれ渦を巻くように一定の方向へ回り出して発展するのである。まさにこれこそが三つ巴である。

※ 「三つ巴」は、「みつどもえ」と読む。三つの力が拮抗して張り合っている状態のこと。文様としては、勾玉のような形の巴が円形の中に三つ入ったデザインを指し「三つ巴」と呼んでいる。


沖縄の海に映る花火


沖縄の最後で海面に映った花火を見つめる瑞希の姿は、ウナリと一緒に花火を観ているというのもあるけれど、

海面=瑞希

花火=巴衛と奈々生

だったのだろう。

巴衛と奈々生は強い光。反発しつつ混ざり合い、美しく輝く光。強すぎて時に反発し、時に惹かれ合う巴衛と奈々生の恋は夜空に光の大輪を咲かせる花火のようだ。

眩しすぎる光を海面に映すことで眺められるようになるというのは、二人のあり方が痛々しくて、見ていられないからこそ、時に奈々生の心を支え、慰め、巴衛が奈々生の心を無視した暴走をしないよう見守る瑞希のあり方そのものである。

また、花火は一瞬で消える。巴衛と奈々生の恋愛関係に内在する危うさを暗示するものでもある。第三者の仲介・仲裁・支えがなければ継続しないという関係性は、脆い。

さらには、花火は、一瞬にも思える刹那に美しく輝く人間の生き方そのもの。恋の成就にあたり、二人で人間になることの暗示でもある。

瑞希の巴衛の監視は直接的には奈々生の「意思」を守るためだけど、間接的には

巴衛が「愛」を失わないためでもあったのだ。

瑞希がいたからこそ、二人の関係性は発展したのだ。

瑞希が巴衛を見張っていたのは、奈々生の意思を無視した暴走をしないよう見張る為であると同時に、花火のようにそれぞれに強烈な光を放つ二人の関係性に内在する危うさを融和させるものだ。

「自由」と「意思」。「愛」と「家族」。最終的に混ざり合い、一つになったからこそ、光り輝く大輪の花を夜空に咲かせるのである。


巴衛と奈々生

巴衛⇒奈々生のベクトルは「愛」で

奈々生⇒巴衛のベクトルは「家族」

似ているけれど少し違う。

だから向き合い方も違っており

巴衛は「求める」

奈々生は「思いやる」

結局最終的に一つになったのだ。

自由+意思=「自由意思」になったように

愛+家族=「愛する人と家族を作る」


奈々生の寿命問題に直面した時の対応の違い

奈々生の寿命問題に直面した時の巴衛と瑞希の対応が実に対照的であった。

奈々生の為に他者に犠牲になってもらうかという究極の問いが出た時に、

瑞希は奈々生の意思を尊重し思いとどまるけれど

巴衛は真逆で霧仁から取り返そうとする。誰にも打ち明けないで。

そして、奈々生は霧仁から取り返すつもりがないのだ。霧仁から精気を奪われて今の状況になっているのをわかっているのに、取り返す発想にならない。おそらく、それは、彼女が霧仁を助けたいという「思いやり」、彼女の「意思」で分けてあげたからなのだ。

だから、彼女の「意思」を踏まえると、霧仁から取り返すという巴衛の行動は、もし奈々生が知ったら止める筈。だからこそ、巴衛は奈々生にも瑞希にも言わないのだ。「俺が必ず守ってやる」というだけで。そして、何も言わず一人で霧仁のところへ向かっていく。

この巴衛の行動は、元々奈々生から奪われたものを取り返すという整理がつくけれど、

究極的には、奈々生の命と他者の命の天秤があるときに、どちらを選ぶかという問題。

瑞希は奈々生の「意思」を尊重する

巴衛は奈々生の「命」(器)を尊重する

この二人の選択の違いがどのような帰結をもたらすかは、結局霧仁が自分から返してきたから、作中では描かれなかったけれど、まさに二人の価値観と奈々生に対する向き合い方の違いが如実に表れていると思う。

どちらが良いか、すぐには判断できない。

そもそも正解もないというか。

いずれにしても、巴衛の発想は、奈々生や瑞希と対極で、だからこそ、巴衛は新たな何かを生み出す存在でもあるのだなと。真逆の存在であるからこそ、新たな視点や発想をもたらしてくれる。

瑞希は奈々生を受け止める存在⇒還る場所

巴衛は奈々生と共に新しい何かを生み出す存在⇒共に生きる相手

巴衛の根底にあるのは、「愛」と「自由」。

このときも、「愛」のために命を救おうとするし、話したら止められるのは目に見えているからこそ、言わない。自分の判断や行動の「自由」を制約されたくないから。加えて手を汚すところを見られたくないという気持ちもあるし。

瑞希の行動原理は、奈々生の「意思」を尊重し、支えること。

巴衛(火)を見守り、奈々生の「意思」を無視した暴走を防ぎ、止めること

だから、まさに瑞希が知ったらおそらく奈々生の意思を尊重して巴衛を止めたはずだ。

だからやっぱり巴衛は火の山で、瑞希は黄金の湖なのだ。