2020年10月13日火曜日

「神様はじめました」考察 自由と意思① なぜ巴衛はミカゲ社を出るのか 「自由」のために

 本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。



「自由」を重んじる巴衛


巴衛の至上価値は「自由」である。
一番最初をのぞき、2回目と3回目の神使の再契約は自分で選択していることからも伺われる。

なぜ巴衛は過去編後もミカゲ社に住み続けたのか?


過去編終了後、奈々生が500年前の恋人であったことを認識した巴衛は、ミカゲ社を出ても良かったはずである。なぜなら、元々ミカゲ社にやってきたのは、恋人を失って寂しい心を埋めるためにミカゲをよりどころとしたからだ。

しかも、「神と神使の契約」自体、自由意思の制約である。

にもかかわらず、巴衛が「神使」という役職を手放さなかったのは、なぜだろうか?

それは、ミカゲ社にいる為である。「神使」をやめればミカゲ社に居残る大義名分がなくなる。つまり、巴衛の中でミカゲが「神様」すなわち、よりどころだったからである。

過去編終了後、巴衛にとっては、奈々生は愛でるべき「花」であっても生きる指針となるべき「星」ではなかったのだ。

巴衛は、そもそも、「結婚」が相互の自由意思の表明とその合致であることも認識していない。「結婚」の本質を理解していない。「神と神使の契約」との区別すらついていなかった可能性が高い。

すでに「ずっと一緒にいる約束」の証として奈々生との間に「神と神使の契約」がある以上、それをわざわざ「結婚」にアップデートしてミカゲ社を出るという発想すらなかった可能性がある。

過去編終了後に奈々生にかんざしを渡す行為(第17巻第101話)は、おそらく求愛の趣旨であるが、奈々生にはそうとは受け止められていない。そこに「言葉」による意思表示がないからだ。

第17巻第101話

勿論、実社会の契約関係の解釈においては、言葉による意思表示がなくても状況証拠で意思の表明と解釈されるケースがある。

かんざしを渡す行為はそれに近い。口づけもそうだろう。

しかし、「言葉」を大事にする世界観においては、「心」や「意思」は「言葉」で表明する必要がある。言葉が自己認識を具象化するものであり、言葉が他者に自分の想いを伝えるツールだからだ。「言葉」に力が宿るという意味はそういうことだ。


なぜ巴衛は相互の意思が大事だとわからないのか?


巴衛が相互の意思が契約の成立に必要だということを知らない理由は、1つは、彼がもともと自然現象だからである。もう一つは誰も彼に「言葉が大事だということ」をはっきりと教えないからである。

なぜか?

それは、神様の世界観では自分の頭で考えることが大切だからである。

神に近づくには鏡を見て自分の心と向き合わなければならない。

思えばこれはハードボールである。何しろもともと意思を持たない自然現象に対して自分の心と向き合って考えろと言うのだから。燃え上がる炎に向かって「心とは何かを考えよ」と言うに等しい。

通常であればそんなことを言い出すのは想定し難い無理難題である。


巴衛が「心」と向き合うべき理由


なぜ、神様たちは、巴衛に「心」と向き合うという難題を出すのか?

それは、巴衛が「愛」を知ったからである。

誰かを愛するとは孤独からの解脱だとかつてミカゲ様は言った。

火は、「愛」を知らなければ自らが「孤独」であることも知らなかったはずである。

しかし一度愛を知ってしまったら、愛を失うということはすなわち孤独であることを知ることなのである。

世界は自分の認識でできている。そして一度違う世界足を踏み入れたらもう元には戻れないのである。「愛を知ってしまった火」はもう「知らなかった頃の世界」には戻れないのだ。


沖縄の修学旅行のメガネ女子のエピソードは自分とは違う世界に足を踏み入れることに伴う代償を描くものであった。

沖縄修学旅行で登場するメガネ女子の杵島は「人の輪」から離れ、「妖の世界」へ自ら飛び込んでいく。しかし、自分の世界から別の世界へ飛び込むことに伴う代償を感じ取り、現実世界、「人の輪」へと戻っていく。そして、思うのだ。「バカみたいだけど…落ちつくわ」と。

「誰しも自分の世界から出る時は相応の覚悟が必要だ 時には命が代償になることもあるぞ」(第20巻第114話)

この法則は、様々なレイヤーに適用されるものである。

「愛というものを観念し得ない世界」にいた自然現象(荒ぶる火)の化身が「愛のある世界」に足を踏み入れたことで「孤独とは何か」を知ってしまったのである。

知らなかった頃の世界には戻れないのだ。


それでは再び孤独になってしまった火を救うために神ができることは何であろうか?

記憶を消して愛も消してしまうことは、応急措置としてはあり得ても、根本的な解決にはならない。

なぜなら、記憶を忘れても、そこにあった想いは残るからだ(第11巻)。

愛を失った代償である孤独感は消えないのだ。

だから巴衛は500年間孤独を味わったのだ。

知らなかった頃の世界に後戻りできない以上、彼が孤独から解脱するには、愛する者がそばにいなくても温かくなれるよう「心」を獲得するしかないのである。

心がわからないからといって心と向き合わないのは、すなわち常に孤独の中にいることである。

故に難題であっても自分の「心」と向き合う課題が出されるのだ。


自由意思に基づく悔いなき選択


日本の神様たちは答えを教えない。神とは自分の心と向き合って近づくものだからだ。ヒントはあげても道は自分で見つけるものだ。自分で見出すからこそ自由意思に基づく悔いない選択となる。

奈々生ですら、巴衛に答えを教えない。自分の頭で考えることが大事だからだ。

黄泉から帰ってきた後の一連の問答はこの復習である。

「自由」の本質を知り、自身の不自由さを認識した火は、自由な世界へと前進するために次の選択をするのである。それが奈々生のもう後戻りはできないという台詞に裏打ちされるのである。

ここに、巴衛がミカゲ社を出る意味がある。

「保護者からの自立」である。

巴衛は自由になるために神社を出るのだ。自由になるとはすなわち、庇護者による保護と見守りから離れて、自分の意思で生き方を決めることである。

だからこそ次に神社に戻るには保護者による監視と庇護がなくても自己決定できるほどに強くなっていなければならない。それが強くなって戻ってくるという言葉の本質である。

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奈々生が一番大切にしている価値は「意思」であり、

巴衛の一番大切にしている価値は「自由」である。

それぞれの大事なもののために奮闘し、最後の選択をしたのだ。

最終話で描かれているとおりである

「いいなあ自由で…」⇒巴衛

「自分たちが選んだ人生の途中にいる」⇒奈々生