本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
10年後の奈々生が巴衛が人間になったことを後悔していないか心配している。例のごとく彼女が「思いやり」で気をまわしているのだ。心配しつつも、言葉にのせることはしない。何もしてあげられることはないからだ。
しかし、人間として過ごした10年間で成長した巴衛は、奈々生の思考パターンも多分わかってきている。だから巴衛は自分から尋ねるのだ。
わからないからといって放棄するのではなく、理解しようと歩み寄り、「言葉」をかける。
まさに彼の心が情感豊かになったということでもある。
また、後悔していないと言う彼のセリフにあるのは、自由な意思に基づく自己決定をしたからこそ今の自分の生き方を肯定できているということなのではないだろうか。
それが自分を捨てると言うことの対極にあるものだ。
他の誰かのために自分のやりたいことや願望を抑制して自分の意思を殺しても、それは本当の意味で自分らしく生きているとは言えない。自分を尊重しないという意味でいわば自分を捨てること。
自分らしく生きるためには自分の心の声に素直に耳を傾けること。
自分らしい選択をするためには選択の自由が与えられていなければならない。
そして、相手にも選択の自由を与えなければならない。選択肢がなければそこに自由な意思決定は無い。選択肢の中で自分で悩み抜いて考えた決断だからこそ自分のした決断として受け止められるしそれがまさに悔いなき選択となる。
自分以外の誰かのために、または自分以外の誰かがした選択に従って生きるのは自分の人生を生きていない。
自分で考えて選んだからこそ、自分の人生を生きていると言える。
それが自分を尊重するということ。
自身の尊重なくして他者の尊重もありえない。
自己受容と他者受容こそ、自己実現の達成に必要なのだ。