本記事は、『進撃の巨人』(諫山創著、講談社)の感想記事です。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『進撃の巨人』(諫山創著、講談社)より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
※ 前回の記事 進撃の巨人 133話「罪人達」の感想
今回の考察内容
先日、『進撃の巨人』133話「罪人達」を受けた作品のテーマと今後の展開について感想記事を書いたが、その後、「話し合い」の拒絶とエレンが拘る「自由意思」というものが何かについて、さらに考えてみた。
進撃の巨人 133話「罪人達」 |
「話し合い」の拒絶
第133話で描かれたのは、手を差し伸べる仲間たちの呼びかけを拒絶するエレンの姿である。
即ち、「話し合い」の拒絶である。
巨人とは何かをメタ的に見た場合に、それは大自然の驚異であり、人間に害為す自然現象の具象化とも言える。自然の脅威の前に個としての人間は無力である。
しかし、個としての人間は無力でも、助け合い、支えあい、次の世代に想いを繋ぐことによって、脅威を克服してきた。それが人の強さである。
人が自分を知り、人に想いを繋ぐツールが「言葉」であり、「話し合い」である。言葉に力が宿るのは、言葉が頭の中のもやもやとした想いを具象化する力を持つからだ。人間は、自分の心を「言葉」で認識し、「言葉」で説明することによって、自分を知り、それを他者に伝えることができる。
「話し合い」の拒絶とは、即ち相手の「心」を受け取ることを拒絶することであり、「人間の強さ」の根幹を否定するものである。その帰結は「孤独」である。
「自由意思」とは
かつてエレンは、「オレが何をしようと何を選ぼうとそれはオレの自由意思が選択したものだ」(第112話)と言った。
自由意思とは、自分の意思が自分の自由になるという仮説である。人間が自己の判断に対するコントロールを行うことができるという仮説である。
人間による一連の活動は、(1)意思によって、(2)行為が発生し、最後に(3)結果が生じる、という形で一般化される。
「思ったとおりに行動している」とは、(1)から(2)への遷移における自由行為である。身体的拘束がない限り自由行為が成立するのは明白だ。
これに対して自由意思の問題とは、その名称の通り(1)の意思そのもの、いわば「どのように思うか」が自由であるかについて直接的な問いかけをするものである。
因果的ないし単調的決定論とは、未来の事象は自然法則を伴う過去および現在の事象によって必然化されているという主張である。
このような決定論は、時として、ラプラスの悪魔という思考実験によって表現される。過去及び現在の全事実・自然法則を知っている存在というものを想定する。
ラプラスの説明は以下の通りである。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
自由意思の問題は、もし私たち人間のために時の流れの最初からその行為を決定した存在というものがいるならば、どうして私たち人間の行為が自由でありえるのかという問題に行き着く。
「全てを知っており、未来も予見している知性」については、遙か昔から人類は意識しており、通常それは「神」と呼ばれている。
なお、量子力学によって、原子の位置と運動量の両方を同時に知ることは原理的に不可能である事が明らかになった(不確定性原理)。これによりラプラスの悪魔は否定されている。
進撃の巨人の継承者はなぜ「自由」を求めるのか?
未来の継承者たちの記憶がみえるという進撃の巨人の能力は、「全てを知っており、未来も予見している知性」でもあり、いわば、「神」の力を借りているのである。
そのような存在を前提とすると、進撃の巨人の行為は「自由意思」に基づくものといえるのであろうか?
いついかなる時代も進撃の巨人の継承者たちが「自由」を求めて歩み続けたのは未だ彼らが「自由意思」を獲得していないということである。
「自由」の本質は「意思」すなわち、精神性にある。だからこそ、エレンは「自由意思」という概念を持ち出すのだ。
「自由意思」とは、すなわち、「どのように思うか」が自由であるかという論点である。
なぜエレンは「道」を否定しないのか?
やはり、進撃の巨人の心が「自由」になる為には「道」を壊し、ユミルの民の精神的束縛から解放されるしかないのである。
にもかかわらず、なぜエレンは、「道」を否定せず、地ならしへ突き進むのだろうか。
自らの自由意思も手放し、孤独になることも厭わず前へ進み続けるエレンの行動の原動力は、おそらく、パラディ島の民を守りたいという「パラディ島の仲間への愛」なのだ。
ユミルの民の精神性をつなぐ「道」も、始祖ユミルの「愛」である。始祖ユミルの子どもたち、すなわち「ユミルの民」を世界から守るための装置だ。
エレンも始祖ユミルも、「愛」ゆえに心の自由を奪われた状態なのである。
『進撃の巨人』が自由のための物語だとすれば、おそらく、最終的には、エレンと始祖ユミルの精神性が解放される帰結となるはずだ。
そのために「愛」の再定義がされるのではないかと思う。
「悔いなき選択」とは
壁を乗り越えたエレンは、世界が敵であり未だ自由ではないことを知る。そして、未来の記憶を頼りに、地ならしへ突き進む。
しかし、パラディ島の住民が自由を獲得する為の選択肢は本来様々存在する筈であり、何を選び取るかは通常、自由意思によるものである。
「話し合い」というのは様々な選択肢を洗い出して、その中から自分たちにとって何が最善か英知を出し合って選び取るプロセスである。
選択の結果が常に最善とは限らない。しかし自由意思に基づく選択であるからこそそれは「悔いなき選択」となるのだ。何が正解かわからないからこそ自らの意思で選ぶのである。
未来が見えるというのは答えが最初からわかっているということであり、自らの行動に選択の自由を失うということなのである。
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床に埃がたまっている時に、掃除をするかしないかを決めるのは人間である
掃除をしないでほったらかしにする自由もある。
みたままの未来をなぞり、仕方なかったと言って世界を平らにするのは、いわば掃除機を使う側ではなく、掃除機そのものになっているということである