※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『進撃の巨人』(諫山創著、講談社)より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
※ 先日の考察記事 『進撃の巨人』考察「今日はダメでもいつの日か」進撃の巨人第132話を受けた作品のテーマと今後の展開についての考察 「理解することをあきらめない姿勢」
今回は、『進撃の巨人』133話「罪人達」を受けた作品のテーマと今後の展開についての考察です。
感想:「愛」の再定義の提案
前回、人類愛の体現者であったハンジは死亡退場した。
今回、エレンを理解したと思ったライナーはやはりエレンを理解していなかったことに気が付き打ちのめされる。
104期の仲間たちも、エレンに差し伸べた手を払いのけれられ、絶望する。
これはまさに「愛」の否定である。
諌山先生はこれまで人類が良しとしてエンターテインメントコンテンツで描かれてきた様々な「美しいもの」の価値を徹底的に否定し、否、本質を見ることを提示している。
「仲間」、「信頼」、「夢」、「英雄」、「救世主」だ。
今回再定義が提案されたのは「愛」である。
進撃の巨人 133話「罪人達」 |
始祖ユミルと並んで立つエレン。
背後に光り輝く「樹」。
楽園のアダムとイブを想像させる。
やはり、「楽園追放」の物語だったのだ。
「罪人達」とは、仲間の屍の上にここまでやってきた調査兵団の生き残りたちでもあるし、エレンと始祖ユミルでもある。
今後の展開の予想:楽園追放
私見では、『進撃の巨人』のテーマは「楽園追放」である。
聖書の宗教的な解釈や正しい読み方はさておき、「楽園追放」の本質を『進撃の巨人』の読書の一環として、以下のように読んでみたい。
創造主に楽園に閉じ込められていた「始まりの男女」。「食べてはいけない。食べたら死んでしまう」というルールは、彼らの心を縛るものであり、精神の束縛の象徴である。心の不自由さを描くものである。しかし、アダムとイブは、「知恵の実」を食べたことで、自分たちが囚われていたこと、すなわち、精神の不自由さを認識し、楽園を出る。楽園を出ることで「死」も免れなくなるが、彼らの精神は解放され、真の「自由」、すなわち「心の自由」を獲得するのだ。
エレンと始祖ユミルにとっての「楽園」は、すなわち「道」である。
そして、おそらく、彼らを道に閉じ込めるものは、「愛」である。エレンは「親からの愛」または「パラディ島の仲間への愛」に、始祖ユミルは「子どもたちへの愛」に、それぞれ囚われているのである。
世界は自分がこの世界をどうとらえるか、即ち「認識」でできている。
自分の関心に応じて情報を選別し、認識するので、自分が見たいものしか見えていない。
しかし、「認識」することで世界は変えられるのだ。過去と他人は変えられない、変えられるのは未来と自分である。
少年エレンは、アルミンの眼を見て、自分が「自由ではない」ことに気がついた。
青年エレンもおそらく、アルミンの何某かの活躍により、自分が「自由ではない」ことに気がつくだろう。
アルミンは「楽園追放」においてアダムとイブに果実を食べて賢くなるようそそのかした、「蛇」の役割を担うのだ。
物語の結末として、エレンと始祖ユミルは「楽園」たる「道」から出ることになるだろう。
おそらく、肉体的には、彼らは滅ぶだろう。始祖ユミルの肉体はとうの昔に実体を失っているので当然として、おそらくエレンの肉体も滅ぶはずだ。
一方、エレンと始祖ユミルの精神はそれぞれ解放される。
第132話でハンジが示したように、「自由」の本質は「心の自由さ」にある。
精神の自由を獲得することで、エレンと始祖ユミルの「心」は救済されるのだ。
エレンの解放
現在のエレンは、「自由」ではない。何かに囚われているのだ。それが何かが、本作最後の謎だろう。もしかすると、「パラディ島の仲間への愛」かもしれない。
そもそも、「家」、「壁」、「道」は何なのか?
見えている物と実在する物の本質に疑問を持とう、というハンジさんの言葉を思い出そう。
「家」は、子どもにとっては、外界から守ってくれるものだ。
しかし、大人になるためには、親の庇護を離れ、親の束縛から解放されなければならないのだ。
すなわち、「家」、「壁」、「道」は、各成長段階における保護者による庇護と束縛の象徴であり、それぞれの破壊は庇護者から解放され真に精神的に自由となる為の通過儀礼なのだ。
家:子どものエレン
保護者:両親
外敵から守ってくれる
しかし、エレンが調査兵団に入ることを留め、探究心を抑制するものである。
壁:少年エレン
保護者:壁の王
世界がパラディ島へ侵攻することを防ぎ、守ってくれる
しかし、エレン及びパラディ島の住民を壁の中に閉じ込めるものである。
道:青年エレン
保護者:始祖ユミル
巨人を作り出し、パラディ島の外の敵から守ってくれる。地ならしはその一環。
しかし、エレン及び全てのユミルの民の精神を束縛し、「ユミルの民」の運命の連鎖に閉じ込めるものである。
かつて、「家」の幻影に囚われ、自分を見失ったエレンを解放したように、再びアルミンがエレンを「道」から解放するときが来るだろう。
そのとき、エレンの精神は真に自由となるのである。
始祖ユミルの解放
始祖ユミルが望んだものも「自由」だ。
物理的には強大な力を手にした始祖ユミルが王家に隷従し続けたのは、まさに精神性の問題だ。
心が囚われていたから逃げ出せなかったのだ。
ユミルの姿が死亡時の「大人の女性」の姿ではなく、「少女」の姿であるのも、まさに彼女の精神自体が何者かに囚われていることの証左である。
もしかすると、始祖ユミルが囚われているのは、王家ではなく、「子どもたちへの愛」かもしれない。彼女の娘やその子どもたち、いわば外敵から始祖ユミルの子どもたちを守るために、彼女は、永遠とも思えるような長い間、独りで巨人をせっせと作っているのだ。
そこに居るのは、転んで血が出て泣いている子どもを助けおこし、絆創膏をはってあげている母親の姿である。
エレンは、始祖ユミルを解放してあげるなら、「一緒に世界を滅ぼそう」のではなく、「お前はもう巨人を作らないでいいよ」と言ってあげれば良かったのだ。
現に今も彼女の心は「道」に取り残されている。世界を滅ぼしても、巨人化能力に頼る限り、ユミルの心が不自由であることには変わりはないのだ。
もしかするとアルミンがそう言ってあげるのかもしれない。
「君はもう巨人を作らないでいいよ」と。
おそらく、アルミンは、巨人化能力及びユミルの民の心を繋ぐ「道」を捨てる決断をする。まさに「何かを変えるために」「大事なものを捨てる」決断だ。
続きの記事 進撃の巨人 133話「罪人達」の感想 その2 Attack on Titan Chapter 133 (2)