本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
自由意思の問題
自由意思とは、自分の意思が自分の自由になるという仮説である。人間が自己の判断に対するコントロールを行うことができるという仮説である。
人間による一連の活動は、(1)意思によって、(2)行為が発生し、最後に(3)結果が生じる、という形で一般化される。
「思ったとおりに行動している」とは、(1)から(2)への遷移における自由行為である。身体的拘束がない限り自由行為が成立するのは明白だ。
これに対して自由意思の問題とは、その名称の通り(1)の意思そのもの、いわば「どのように思うか」が自由であるかについて直接的な問いかけをするものである。
因果的ないし単調的決定論とは、未来の事象は自然法則を伴う過去および現在の事象によって必然化されているという主張である。
このような決定論は、時として、「ラプラスの悪魔」という思考実験によって表現される。過去及び現在の全事実・自然法則を知っている存在というものを想定する。
自由意思の問題は、もし私たち人間のために時の流れの最初からその行為を決定した存在というものがいるならば、どうして私たち人間の行為が自由でありえるのかという問題に行き着く。
「全てを知っており、未来も予見している知性」については、昔から人類は意識しておりそれは「神」と呼ばれている。
奈々生の自由意思の問題
過去にさかのぼる不思議な道具を使って未来から来た人間は「全てを知っており、未来も予見している知性」であり、いわば、「神」の力を借りているのである。
そのような存在の行為は「自由意思」に基づくものといえるのであろうか?
時廻りの香炉を使って過去に遡った奈々生は500年前に巴衛が愛した女性が雪路という女性であると知っており、過去を変える事は許されないというルールのもとに行動する。であるがゆえに彼女の行動は自由意思の制約されたものである。
何よりも自分の意思を重んじる彼女が、自らの意思に基づく選択を制約されているのである。
(あなたが想う相手は私じゃなかったのかもしれない…でも今だけ 奈々生として応えたい)(第16巻)
過去の巴衛の「熱い想い」の告白を受けて、その時ばかりは自分として応えたいと思い、未来で巴衛の妻になると言って将来を約束する。しかし、それすらも未来の何某かの意思に決定されているものなのだ。
その何者かとは誰か?
それは未来の奈々生自身なのである。すなわち、過去の顛末を知った彼女が、現代から見た20年前にミカゲと出会い、事情を打ち明ける。ミカゲは奈々生から聞いた過去の事実をもとに采配を振っていただけである。したがって、過去における奈々生の行動を支配していたのは未来の奈々生の意思なのである。
自分で未来を決める
(先のことはまだわからない わからないから怖いんだ 今と変わってしまうことが)(第20巻第116話)
(ここから先の未来は誰にもわからない 誰にもわからない だから自分で決めるんだ 未来を)(第24巻第141話)
沖縄修学旅行後、未来がわからないから決めるのが怖いと言っていた彼女だったが、
黄泉から帰って来た後は、未来を自分で決めることを選択する。
それは、何者かの決定に頼らない、自らの自由意思に基づく自己決定に基づいて未来を、生き方を選ぶということである。
彼女の意思決定の指針となるのは、巴衛である。巴衛が生きるモチベーションだからこそ、彼女は勇気をもって未来に向かって進むことを選ぶのだ。
思えば鳴神編のときにすでに同様の考えは示されていた。
(突然やってきたトラブルに気づけば家を持っていかれて ただそこに座って強い風が吹き止むのを待つことしかできなくても今度は一人じゃないから 私がしてあげられることがあるから だから前よりも私は強いよ)(第2巻第11話)
「突然やってきたトラブルに気づけば家を持っていかれて」とは、物語全般における彼女の課題を提示するものだ。思えば彼女は冒頭で父親が家出をして差し押さえを受けたことをスタートに、彼女の外の事情に常に振り回されてきた。自らの「意思」を何よりも大事にする彼女が、自分の「意思」を貫くために奮闘する過程でもあったのだ。
「今度は一人じゃないから 私がしてあげられることがあるから だから前よりも私は強いよ」というのは、巴衛が彼女を強くしてくれるということだ。
鳴神、過去編、悪羅王・夜鳥編、そして物語全般を通して浮かび上がるのは、奈々生の行動原理の根底にあるのは巴衛を「守りたい」「助けてあげたい」「支えたい」という気持ちであり、それが彼女を強くし、輝かせている。巴衛が彼女の「巴衛を守ること」が彼女の生きるモチベーションであり、生き方の標となる「星」なのだ。
第21巻 【悪羅王・夜鳥編】 |
(もし私に時間がないのなら巴衛になにかしてあげたい 何もしないまま待っていたくない 私の生きるモチベーションは巴衛だよ 巴衛がいれば私はもっともっと強くなれるんだから)(第21巻)
一方、巴衛もまた、奈々生に夢を見ている。奈々生を幸せにすることが彼の夢である。だからこそ、巴衛は奈々生に対して、「生きたいように生きろ」と言うのである。かつての「背負われたくない宣言」も同様の趣旨である。
「俺はお前と一緒に笑って同じ時を過ごしたいだけだ お前に思いやってほしいわけでも背負ってほしいわけでもない」(第22巻)
おそらくは巴衛は奈々生が自分を背負うことによって奈々生の自由意思が損なわれることを憂いているのではないだろう。巴衛は何よりも「自由」を尊ぶので、奈々生の「自由」が損なわれないよう、奈々生に生きたいように生きろと言ってあげているのだ。
第24巻第143話 |
「お前が金銭に憂いていれば俺が賄うだけのこと 夢を見たいなら見せてやる だから望む人生を歩け どこだろうと隣には俺がいる 俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話)
その後の進路選択だけではない。
巴衛と奈々生の最後の求婚も自由意思に基づくものである。敢えて描かれたのは彼らの自由意思に基づく結婚だということを示す意味もある。
更には最終的にミカゲ社に戻ることもまた奈々生の自由意思に基づくものである。
ミカゲの「自力で思い至ることが大事なんだ」(第14巻第81話)という言葉の本質はそこにある。
第14巻第81話 |
自由意思に基づく自己決定こそ悔いない選択となる。
何者かの意思による采配を受けた決定は、自由意思に基づかない。精神の自由の制約を象徴するものである。
この物語の冒頭から、巴衛だけでなく、なによりも意思を尊ぶ奈々生もまた、不自由だったのである。
思えば最初に彼女がミカゲ社にきたのは未来の彼女自身の采配によるものであった。「今」を大事に生きる奈々生にとっては、たとえ「未来の」自分の采配によるものであろうと、自由意思に基づく選択ではなかったのだ。
かくして奈々生が一旦ミカゲ社を出る意味もここにある。
一旦ミカゲ社を離れた奈々生が、10年後に再びミカゲ社に戻るのは、他の誰でもない、「今」を生きる奈々生自身の自由な意思決定に基づいて生きる場所を社に定めた何よりの証であり、「生きたいように生きる」ことの本質を示すものなのだ。
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奈々生が一番大切にしている価値は「意思」であり、
巴衛の一番大切にしている価値は「自由」である。
それぞれの大事なもののために奮闘し、最後の選択をしたのだ。
最終話で描かれているとおりである
「いいなあ自由で…」⇒巴衛
「自分たちが選んだ人生の途中にいる」⇒奈々生