※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
今回の考察内容
「白札に字を書くようにこの式神に名前を付けなさい それが式神の能力になりアンタの望みを代行する」(第6巻第34話)
きちんと相手の名前を呼ぶことは関係性構築の第一歩である。その観点から本作における登場人物たちの関係性構築への向き合い方を整理してみたい。
名前で呼ぶこと
言葉に力が宿るという世界観においては、相手を名前で呼ぶことは、関係性を築くための第一歩である。
夜ノ森水波姫(ヨノモリミツハノヒメ)(ヨノモリ社のヨノモリ様)は奈々生の名前をまず問う(第14巻第82話)。名前が重要だからだ。
黒麿が契約条件の内容を確認する際、巴衛に対して「その女の名は?」と尋ねるのもやはり、名前が重要だからである。
誰かをちゃんと「名前」で呼ぶのが重要なのである。
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鞍馬と瑞希は最初から名前で呼んでる。
二郎が奈々生の名前を確認するところが可愛い
「奈々生というのか……あの娘は……」(第10巻)
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ウナリは最初瑞希のことを「私の夫」と呼んでいた。
でも、瑞希と話していてあるきっかけで「ありがとう 瑞希」と名前で呼ぶようになる。
「夫」という「器」ではなくて、「瑞希」という「本質」を見て理解して好きになったということ。
誰かの名前をきちんと呼ぶことは関係性構築の第一歩なのだ。
巴衛と奈々生(第17巻第100話)
初めて巴衛が奈々生の名前を口にするのは白札で助けを求められた時だった(第1巻第3話)。
「巴衛 助けて…」
「ミカゲ印の白札だ 奈々生が物の怪に襲われているらしい」
(第1巻第3話)
それまでは巴衛は奈々生を「お前」「娘」「クソ生意気な女」「あんな女」と呼んでいたのだ。
この頃の巴衛はミカゲに置いていかれてすねていた。しかし、奈々生から助けを求められて自分が必要とされていると感じて、奈々生を名前で呼ぶ気になったのであろう。
メタ的には、巴衛が奈々生という存在を受け入れ始めた証であり、神と神使の関係性のスタートである。
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ミカゲの暗示が解けて記憶を取り戻した巴衛が奈々生を見て「雪路」と呟くシーンがある(第14巻第79話)。まさに過去に巴衛が出会って愛した女は奈々生だったからこそだ。しかし、奈々生の名前を正しく呼ばなかったことで、巴衛と奈々生の二人の関係性は一旦壊れたのである。その後二人は再会するまで向かい合わない。
「雪路…」
「……え?」
(第14巻第79話)
言うなれば、記憶を取り戻した時点で、「500年前に愛した女性」と「現代で愛した女性」は別人という位置づけだったのである。だからこそ、巴衛は奈々生と向き合わない。一度失った経験が辛すぎて、「もう求めたくない」のである。
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過去では巴衛は奈々生を「雪路」と呼ぶ。事象としては奈々生が雪路のふりをしていたからなのだが。
自分の名前を呼んでもらえないことで、奈々生は過去の巴衛の愛情が自分ではなく雪路に向いていると感じるし、過去の巴衛の愛情をなかなか受け止められないのだ。
奈々生が過去編で最後まで「奈々生」と名乗らないのは、過去の巴衛と関係性を構築するつもりがなかったからだ。
桜の木の下で巴衛の気持ちに応えたけれど、過去で結ばれるつもりはなかったから、名乗らなかった。その代わりに未来を約束したのだ。
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奈々生が呪いを解く方法を見つけ、かんざしを持ち帰り、再会した巴衛にまず尋ねるのが自分の名前である。
「巴衛 私は誰…?」
「奈々生だ」
(第17巻第100話)
巴衛は今度は正しく「奈々生」と呼ぶ。
これは、巴衛が500年前に愛した女性は奈々生だと認識したということである。また、二人の関係性の再構築という意味がある。
過去編ラストのポイントは、キスではなく、奈々生を「雪路」ではなく「奈々生」と呼ぶことにある。巴衛が500年前の恋人が「雪路」ではなく「奈々生」だと認識し、巴衛の心の中で、奈々生の位置づけが、
「現代で出会って愛した女性」から
「500年前に出会って愛した女性」に再定義されたということである。
一気に500年分の想いが追加されたということでもある。
メタ的には、第1巻で巴衛が奈々生を名前で呼んだときから始まった二人の関係性、つまり、「神と神使」の関係性は、巴衛が奈々生を「雪路」とよんでしまったときに一旦壊れた。そして、再会した時に「奈々生」と呼ぶことで、新たに構築されたのだ。
だから巴衛は回復後に奈々生を求めることができるようになったのだ。
霧仁と奈々生(第22巻第131話)
霧仁は奈々生をずっと「クソ女」「エリマキ女」と読んでおり、名前で呼んだことがなかった。だからこそ、光を取り戻した黄泉で、霧仁が「奈々生か…」と呟くシーン(第22巻第131話)は情感あふれるのである。この時にはおそらく霧仁は奈々生が「大切な存在」であることに気が付いている。
第22巻第131話 |
上記の通り、過去編で再会した巴衛に奈々生が尋ねるのが自分の名前。これに対して巴衛が「奈々生だ」と答える。一方、ずっとクソ女呼ばわりだった霧仁がはじめて奈々生の名前を口にするのがこの黄泉のシーン(第22巻第13話)。
巴衛との対比で考えると、この時、霧仁が「奈々生が大切な存在だ」ということを自覚したということだ。
まとめ
「言葉」を大事にする世界観では「名前」もまた重要である。
名前を呼ぶことは関係性構築の第一歩である。きちんと名前で呼ばないということは、関係性を構築するつもりがないということだ。
巴衛と霧仁がそれぞれ奈々生の名前を呼ぶことは、奈々生という存在を受け入れ、関係性を構築する第一歩を踏み出したことを示すものである。
そして、巴衛は「荒ぶる火」の化身、霧仁は「荒れすさぶ嵐」の化身である。人間とは異質な存在、自然現象そのものの化身である。
そんな彼らが奈々生との関係性を構築し始めるというストーリーに象徴されるメッセージは、古来の人々が恐れた荒ぶる自然現象が、人間という存在を受け入れ、人間との関係性を構築する第一歩を踏み出したこと、人間から見れば、荒ぶる自然を鎮めるための正しい祀り(浄化)が功を奏し始めたことを示すものである。
その後イザナミが巴衛に出した「人間を愛する」という課題の本質は、「荒ぶる火」、即ち、古来の人々が恐れおののいた自然の脅威が、人間という存在を受け入れ、人間社会に御利益をもたらす存在に生まれ変わることを認めること、人間側から見れば、荒ぶる自然を鎮めること=正しく祀ることに成功したということなのだ。
※ 言霊とは
言霊とは言葉のもつ不思議な霊力。発せられた言葉には霊力が宿り、その言葉を発すると言葉通りのことが実現する。良い祝福の言葉を発すれば良いことが起き、悪い呪いの言葉を発すれば悪いことが起きる。言葉は単なる伝達手段だけではなく、発せられた言葉に物事を実現させる霊力がある。
自分の「心」に素直に向き合い、理解するのも、他者の「心」にそれを伝達するのも「言葉」である。巴衛が言葉をおろそかにするのは、「心」をおろそかにしているのだ。言葉に力が宿るのだから。
※ 名づけ
命名も、言霊思想がある。子供が生まれ、人の親となる。子供の幸福を心底願って命名する。暗い、不吉な、不幸を連想するような名前は選ばない。子供が幸福になるように、明るい響きのある、縁起のよい、名前を選んで命名する。その名前を背負って生きていく子供が、言霊の力で名前に見合った人間になると願って命名するのだ。
現代でも、名前は親から子どもへ与える最初のプレゼントである。食べさせることと同様、原初的愛情表現だ。
奈々生が式神に名前を付けた一連のやり取りはこれ。奈々生がみんなを守りたいという愛を込めて名づけた式神「護」は、まさにその名にふさわしい働きを見せるが、本作で名前がいかに重要な意味をもつかということも示す。