2020年10月3日土曜日

「神様はじめました」考察 「人を好きになると解ける暗示」とは(第14巻第79話)なぜ錦編後に暗示がとけたのか?

 本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


今回の考察内容


ミカゲが巴衛にかけた「人を好きになると解ける暗示」(第14巻第79話)の意味、解け始めたタイミングについて考えたい。

「人を好きになると解ける暗示」とは(第14巻第79話)

 「人を好きになるととける暗示」(第14巻第79話)の意味がやはり難解である。説明は以下の通りである。

「巴衛は君が好きなんだ だって人を好きになることで僕の暗示は解けるのだから 君を愛したから雪路の記憶は戻ったんだ 巴衛が君へ傾倒するごとに暗示は解けていってたのさ」(第14巻第79話)

しかし、巴衛は黄泉から出雲に戻った段階で奈々生に惹かれていることを自覚し、鞍馬山では「好きなのに認められない自分」に気が付いている。以前から奈々生を好きだったのに暗示が解けなかったのは、単に「好きになる」だけでは足りないようだ。

文字通り「愛する」こと、「傾倒する」ことが必要だったようだ。

呪いが解けたタイミングから考えるに、暗示が解けるためには「共に生きたい」と思うレベルまで深く奈々生を愛することが求められていたと思われる。

500年前にミカゲが巴衛に暗示をかけたときに巴衛は

「愛していた この世で一番 なにと引き換えにしても一緒にいたかった…」(第14巻第79話)

と言っているのだから、まさに、それくらい好きになることが求められていたのだ。

逆に言えば、暗示が解けた時の巴衛は、奈々生がこの世で一番で、なにと引き換えにしても一緒にいたいくらい愛していた、ということである。


ミカゲの暗示は奈々生の言霊でも破れない(第12巻)


第12巻
(奈々生ちゃんの言霊が効かないなんてよっぽど強力な暗示だな…)(第12巻)

作中の設定として、「神使は神に勝てない」。神であるミカゲの暗示は強力で、錦編の冒頭では、奈々生の言霊縛りでもとけないことがはっきりと描写されている。これは実は伏線だった。

ミカゲ様の暗示が強力だったのもあるけれど、本質的には、巴衛の心の中で占めるミカゲの場所のほうが、奈々生のそれよりもまだ大きかったからなのだ。

「神使は神に勝てない」という設定において、奈々生の言霊縛りでは巴衛の暗示を破ることができず、巴衛がいつまでもミカゲの暗示に囚われていたのは、奈々生の通力の問題ではない。言うなれば、巴衛の心の中では「神様」、拠り所はミカゲのままだったのだ。

そして錦編の最後に、巴衛の心の中の「一番」がミカゲ様から奈々生に変わったから、ミカゲの暗示が解けたのだ。

つまり、錦編のスタート時点では、巴衛はまだミカゲに強く依存していたのだ。

奈々生の場所<ミカゲ様の場所

その大小関係が少しずつ変わっていくのが、まさに、巴衛が奈々生に傾倒していく過程である。

そして、錦編を経て、遂に巴衛の心の中で

奈々生の場所>ミカゲ様の場所

に逆転し、いよいよ本格的にミカゲ様の暗示が解けだしたのだ。

つまり、巴衛の「一番」がミカゲから奈々生に変わったことにより、ミカゲの暗示が全て解けたのである。

では「一番」に変わったとはどういうことだろう?

巴衛は奈々生をずっと前から好きだったから、単に好きなだけでは足りないのだ。奈々生と「共に生きる」ことを願ったときに、巴衛の一番がミカゲから奈々生に変わったのだ。

まさに、過去の巴衛が「愛していた この世で一番 なにと引き換えにしても一緒にいたかった…」(第14巻第79話)と言ったように、奈々生が「この世で一番」になったので、ミカゲの暗示が解けたのである

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巴衛にかけられた「呪い」は、巴衛の体の一部であり、忘却の暗示をかけることにより一旦停止していた。黒麿との契約に紐づいていた「添い遂げたい」という想いを忘れさせる暗示だったから、そんな強い想いを忘れさせるくらいだからよほど強力な暗示だったろうし、それくらい強い想いに達した段階で暗示が解けたとも説明できる。「共に生きたい」というレベルまで誰かを「好きになった」ら解ける設定だった可能性もある。

しかし、ミカゲが巴衛に忘却の暗示をかけた時点では再びそれくらい好きになる相手が現れるかもわからないわけだから、敢えてそのような細かい設定をミカゲがしたとは考えにくい。

やはり、奈々生が「この世で一番」になり、ミカゲよりも奈々生の占める割合が大きくなったから暗示が解けたのだろう。


なぜ錦編後に暗示がとけたのか?

上記の通り、錦編を経て、ミカゲの暗示がいよいよ本格的に解けだしたのは、巴衛が「奈々生と共に生きたい」という自分の願いに気が付いたからだ。

おそらくトリガーとなったのが、岩場の番人・老ガエルのガマ子とのやり取りだ。「妖と人が結ばれる可能性」を体現した、沼皇女と小太郎カップルの行動も影響しただろう。

いつも、巴衛は「奈々生と離れているとき」にこそ、奈々生との距離に向き合うのだ。そして、他人に言い当てられて自分の気持ちに気が付くのだ。

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奈々生の体に憑りついたガマ子は、2回にわたり、巴衛に揺さぶりをかける。

まず、最初は、「ダメよ 妖と人間じゃどうせ一緒にはなれないわ」という台詞(第13巻第73話)。

第13巻第73話


巴衛は目を見開いていたが、これはショックを受けたということだ。わざわざその後で

「…奈々生 さっきお前が言ったことは本気なのか?」(第13巻第73話)

と尋ね、「なんでもない」と言いつつ、引っ掛かりを感じている。

第13巻第73話

実は奈々生と結ばれたいと願っている自分の本音に少し気づかされたかもしれない。これが最初の揺さぶり。

2回目の揺さぶりとして決定的だったのが、その後ガマ子が、本格的に巴衛を誘惑したときだ。

「あなたが好きなの 巴衛 神使なんかやめて 私も神をやめる 沼皇女のように私をさらって 二人でどこか遠くに行きましょう・・・」(第13巻第76話)

この後、一瞬間が空き、二コマにわたり、巴衛の口元が描写されている(第13巻第76話)。

第13巻第76話

おそらく、巴衛が無意識に抱いていた願いを、ガマ子に言語化されて、気が付いてしまったのだ。

「神と神使」の関係を解消して「奈々生と共に生きたい」ということは実は巴衛が無意識に願っていたことだったけれど、「完璧な神使」であることに誇りを感じていた巴衛は、今までそんなことを表層では意識したことはなかった。しかし、奈々生(の姿を借りたガマ子)に言葉にされたことで気が付いてしまうのだ。

だから、間が空いたのだろう。

しかし、巴衛は奈々生がそんなことを言うはずはないと知っているので、反撃するわけだが。奈々生は巴衛が何よりも社を大事にしていると思い、出会った当初から、社を捨ててはいけないと言っている。今では奈々生自身が社を大切にしている。神と神使をやめるというのは、奈々生本人からは絶対出ない台詞である。

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魂は奈々生本人ではないのだが、この時の巴衛は人間アレルギーが強く、奈々生本人相手だと言えないので、奈々生に対する「熱い想い」をこの機会とばかりに吐露する。

「欲しいと思ったら貪り食ってしまう…お前を想えば想うほど爪を立ててしまう」「神使という役職は実に窮屈でな 何もかも捨てて昔のように妖の本能のまま生きていくのも悪くないと思っていた所だ」(第13話第77話)


決定的だったのは、巴衛の

「もうどこにもやらない 飽きるほど愛してやるから俺のそばにいろ」(第13話第77話)

という台詞だろう。

巴衛が奈々生と「共に生きたい」「奈々生にそばにいてほしい」という自身の願いに気が付き、「言葉」にした時、巴衛の心の中で、

奈々生>ミカゲ様

が決定的になり、ミカゲの暗示が本格的に消え始めるのだ。

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日本古来の人々は、言霊を信じていた。言霊とは言葉のもつ不思議な霊力。発せられた言葉には霊力が宿り、その言葉を発すると言葉通りのことが実現する。良い祝福の言葉を発すれば良いことが起き、悪い呪いの言葉を発すれば悪いことが起きる。言葉は単なる伝達手段だけではなく、発せられた言葉に物事を実現させる霊力がある。



「ミカゲが正しい」(第18巻第103話)

上記の通り、巴衛は奈々生を愛したわけであるが、過去編終了時点では巴衛は「器」重視のままなので、奈々生を愛すること、共に生きることの本質を理解していない。当時の巴衛にとって、「共に生きる」とは「物理的に一緒にいること」を指していた(「俺はそばにいないと駄目だ」(第19巻第113話))。

過去編終盤、巴衛はミカゲの懐鏡から出て奈々生の手をとった(第17巻第100話)が、物理的に手をとっただけであった。それは、その後の二人の微妙な反応とかみ合わなさからも明らかである(第17巻第101話)。

この時点では、精神的には、巴衛はまだミカゲに依存しているのだ。例えば、第100話で奈々生と再会し、想いが通じたはずなのに(二人のムードのあるキスはその表れ)、続く第101話では、まだ確信がもてず、ミカゲの説明をきき、奈々生の見た目を判断してようやく納得した様子がうかがわれる。

その後の日常回でも、ミカゲがいる前では態度を改めたり、「ミカゲの言うことは正しい」という台詞がある(第18巻第103話)。また、モチーフとしては、「神使」という役職であり続け、ミカゲ社に残り続けたこともそう。

第18巻第103話

先立つ第11巻の年末闇市でも描かれたように、奈々生の見た目が神様らしくないから神様はミカゲ様。この頃の奈々生は巴衛にとって「花」であり、庇護対象であり、拠り所、精神的指針ではないのだ

奈々生が神様にしかみえない瑞希との違いである。瑞希は器ではなく「本質」をみている。

第5巻第26話

「僕には神様にしか見えないけどな」(第5巻第26話)

そもそも本編の後半まで、巴衛は「神様」の本質を理解していない。神であることの本質は、器の見た目に左右されないのである。現に奈々生の浄化力はミカゲと同程度まで達している(第18巻第103話)。

少女の見た目で判断し、実は神力の強い沖縄の巫女であることを見破れなかったのもその証左である(第20巻第115話)。

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巴衛の本質は「神寄り」でなく「神使」ではないのだ。神使になるべくして生まれた瑞希との違いである。瑞希は「神使(ぼく)」と表現するのに対し、巴衛にとっては神使であることは「役職」である。

おそらく、巴衛を「神使」たらしめているのは、契約関係にしばられた言霊、暗示的なものだ。巴衛の妖怪としての本質は変わっていない。不知火は巴衛の本質を「妖側に近い」と嗅ぎつけている(第13巻)し、鬼火が打ち出の小槌を振っただけで「妖」に戻る(第8巻)。作品終盤でも、奈々生の言霊縛りでたやすく妖に戻っている(第23巻)。

第13巻


道の先にいるのは奈々生(第24巻第139話)

巴衛が奈々生を本質においても「神様」と認め、奈々生を精神的指針としたこと、すなわち、奈々生が巴衛の「星」であり、巴衛の道(=生き方)を照らす存在になったこと、それが、火の山の時点であろう。

(俺の未来は 道の先にいるのは 奈々生だ)(第24巻第139話)

この時点でいよいよ巴衛は精神的にもミカゲではなく奈々生の手をとるのだ。

第24巻


その後、巴衛がミカゲ社を出ることは、ミカゲからの精神的自立の象徴である。

翻って考えると、進化の水を一気飲みした時点ではミカゲに依存していた筈なので、人間になってもミカゲ社に引き続き居残るつもりであったのかもしれない。

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過去編直前まで描かれたのは、巴衛が奈々生という「花」を見つけ、愛するまでの過程である。

過去編終了以降は、巴衛にとっての奈々生の位置づけが「花」から「星」へと変わっていく過程が描かれている。

これは、巴衛が保護者であるミカゲに対する精神的依存から自立し、奈々生に傾倒し、奈々生を精神的指針、いわば奈々生を生きるモチベーションとして見出すプロセスと重なる。

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