※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
※ 前回の記事 「神様はじめました」考察 花③ 「それが人の強さなら俺も人になりたい」 巴衛の理解した「人間の強さ」 「花」とは何か
今回の考察内容
- 「俺の奈々生はいつでも輝いている」(第25巻第144話):年末闇市での定義(第11巻)の見直し
- 「導く光」(第24巻)・黒麿の正体は
- 「俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話)
- 「人間の強さ」の本質とは
「俺の奈々生はいつでも輝いている」(第25巻第144話):年末闇市での定義(第11巻)の見直し
年末闇市エピソード回(第11巻第65話)では、当時の巴衛の価値観、「器」に着目したものの見方が描かれている。
「星柄」:タヌ子さんたち「妖」壊れにくい、長寿、不動
「花柄」:奈々生「人間」壊れやすい、短命
「蝶柄」:ミカゲ「神様」壊れないけど自由にいなくなる
巴衛は「星柄」は奈々生に似合わないと断じる(第11巻第65話)。すなわち、この時点では、奈々生は「星」ではなく「花」であると定義される。まさに、 「器」に着目すれば、奈々生は「花」(短命)、妖怪は「星」(長寿)だからだ。
第11巻第65話 |
この定義が見直しされたことを象徴するのが、物語の最終章で描かれたプロポーズ回(第25巻第144話・第145話)である。
「結婚式は奈々生が何よりも輝く日」(第25巻第144話)
「俺の奈々生はいつでも輝いている」(第25巻第144話)
「奈々生は沼皇女にとって星」(第25巻第145話)
「世界一の星にしてさしあげます」(第25巻第145話)
「本質」を見れば、奈々生はまさに「星」のように「輝いている」。奈々生は沼皇女を導く光であり、「星」なのだ。
「本質」を見れば、「星」の美しさは「長寿」や「強靭さ」にはなく、その「輝き」、人を「導く」光にある。
人間の「器」に着目して一旦否定された「星」としての奈々生(第11巻の年末闇市エピソード)だったが、「本質」に着目すれば、奈々生は「星」であったのだ(第25巻のプロポーズ回)。
人間の価値・位置づけについて、
年末闇市エピソード回(第11巻)で一旦提示された「器」に着目した場合のそれが、
最終章のプロポーズ回(第25巻)で「本質」に着目した場合のそれとして再提示されたのである。
すなわち、これは第11巻からのロングパスなのだ。
ここにおける再定義もまた、巴衛の人間に対する見方、すなわち、彼の価値観だったり、物の見方(器から本質へ)の変化を象徴するものである。
「導く光」(第24巻)
奈々生を「星」として再定義するのには前振りがある。悪羅王・夜鳥編の終盤である、第24巻の描写である。
ここでは、
黒麿:時廻り中の奈々生を導く光
巴衛:奈々生の道の先にある光
奈々生:巴衛の道の先にある(光)
とされている。
光=輝くもの・導くもの=「星」であろう。
黒麿の正体は
黒麿の位置づけは謎めいていたけれど、相対する者によって姿や立ち回りを変えるあり方からして、黒麿自身が「鏡」であった。
「鏡」は映すだけで相手を愛さないから虚しいのだ。しかし、時廻りで暗中模索だった奈々生にとっては道標となる存在であり、それを感謝されて成仏した(第24巻)。
「あの時廻りの中貴方が行く先を照らしてくれた たった一人で過去を巡る私にとってその光がどれだけ心強かったか あなたが私を導いてくれたんです ありがとう黒麿さん」(第24巻第138話)
メタ的には、黒麿は、誰かを映す「鏡」に過ぎない自分を嘆いていたけれど、奈々生を導く光=「星」だったと言われて、自らの「輝き」を知り、満たされて成仏したのである。
案外、黒麿の正体は「お月様」かもしれない。
お月様は古来の人々にとって「鏡」でもあり、夜道を照らす「光」でもあったから。
思い返せば、過去に巴衛に人間にする契約をした時に「満月」がキーワードであった。
「これは私とあんたとの契約だ 私が次の満月の夜までにあんたを人にしてやろう ただしその条件としてあんたはその女と一生を添い遂げないといけない」(第17巻第99話)
黒麿は自分がただの鏡ではなくお月様だと再定義することにより、自分を取り戻したのである。
「俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話)
「俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話)
第24巻第143話 |
「器」としての強靭さに着目すると「星は強い」が「人間は弱い」。
しかし、「本質」に着目すれば、誰かに大切な存在として想われること、つまり、誰かを「導く光」たりうる点で、「人間は強い」のである。
その意味では、神様もまた、「道」に迷う人間の心の中で輝き、人間を導く輝きであり、光であり、「星」である。
ミカゲは物語全般において、巴衛や奈々生の生き方を導く光であり、
乙比古神、大国主、イザナミは、分岐点において惑う奈々生や巴衛を導く光であった。
奈々生や巴衛は、当初、「道」に迷った場合は神様たちを目印にするのだけれど、最終的には、お互いを目印に自らの「道」を見出すようになる。
「その先にいるのは」巴衛であり、奈々生である。
すなわち、お互いが「星」となったのである。
俯瞰すれば、「道」とはすなわち「生き方」であり、神様は生き方を導く「大人」である。
大人に導いてもらっていた子どもたちが、大切な存在(巴衛的に言えば「生涯の伴侶」)を知り、「大人」ではなく、「共に生きる」パートナーを自分たちの生き方の指針とするのである。
「私が巴衛に夢を見てるように巴衛も私に夢を見てるんだ」(第24巻第143話の招き猫回
という奈々生のモノローグの意味は、そこにある。
第25巻第145話 |
巴衛にとっての恋の成就は「共に生きること」であった(第25巻第145話)。沖縄修学旅行編までは、それは「物理的に」ずっと一緒にいることであったが(「俺はそばにいないと駄目だ」(第19巻第113話))、最終的には、精神面に着目したもの、すなわち、心の中で相手を大切に想うこと、互いを生き方の指針とすることに再定義されたのである。
それが「俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話)という台詞の意味するところであろう。
そして実は、巴衛は出会った当初から奈々生の笑顔に反応していた。
第1巻第3話 |
巴衛はずっと奈々生の笑顔を見たいと思っており、それはつまり奈々生を幸せにしたいということであり、まさに奈々生こそが巴衛にとっての「星」であったということの何よりの証左でもある。
すなわち、物語の最初から、奈々生は巴衛にとって「花」であると同時に「星」でもあったのだ。
火の山で夜鳥の手を取りそうになった巴衛を止めたのは、巴衛の中にいる奈々生であった。奈々生の存在が、そのとき道に迷いかけた巴衛を導いたのだ(「俺の行く先に奈々生がいる限り俺は自分を捨てない」(第24巻第139話))。
その後再会した奈々生の笑顔を見つめる巴衛の表情は何とも形容しがたいが、ずっと「花」だと思っていた奈々生が、実は「星」でもあったことに気が付いたのかもしれない。
第24巻第139話 |
巴衛にとって奈々生とは、
「器」をみれば、美しくも儚く、壊れやすい可愛らしい「花」であり(その意味では庇護対象)
「本質」をみれば、瞬間的に鮮烈な輝きをもって、道(生き方)を照らすしるべとなる「星」なのだ。
「人間の強さ」とは
本作品で描かれた「人間の強さ」とは実に多義的であった。
- 人間は「器」としては弱くて脆い。壊れたら動かなくなるし、寿命も短い。人外のような不思議な力もなく「不便」である。だからこそ、助け合い、支え合い、次の世代に命を繋ぐ。・・・ミカゲ(過去編)
- 壊れたら戻らないからこそ、一つ一つが尊く価値ある存在であるし、壊れてほしくない、つまり「大切な存在」として想う。・・・霧仁(悪羅王・夜鳥編)
- そして、心の中に沢山の大切な存在がいることにより、孤独から解脱し、温かくなる。・・・瑞希(ウナリ編)
- そんな「心」のあり方になりたいと思えばいつだって変われる。・・・巴衛(悪羅王・夜鳥編)
- また、愛し愛され、誰かに大切な存在として想われることにより、夜道を照らす月や星のように輝き、時に道に迷い生き方に惑う誰かを導く存在たりうること。そんな存在を見出すことができること。・・・奈々生(最終章)
このようなあり方に、人間としての「本質」があり、「人間の強さ」を見出すことができるのだ。
人の本質は「器」ではなく「心」にこそある。「心」を見れば「人間は弱くない」のである。