本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
今回の考察内容
二つの桃アイテム(桃丹と桃缶)から浮かび上がる、巴衛と悪羅王が奈々生に惹かれたものが何かを考察します。
神話で解釈する属性とルーツ
神話視点でそれぞれの属性とルーツを整理すると次のように整理できる。
巴衛 「荒ぶる火」=カグツチ
奈々生 「お日様」=アマテラス
悪羅王 「嵐」=スサノオ
瑞希 「水」=水波能女神(みずはのめのかみ)
起点となる神々はイザナミやイザナギの子どもたち。
兄弟ポジションである。
この4人のうち、「荒れすさぶ嵐」の悪羅王と「荒ぶる火」の巴衛は人々の怖れの対象であったケガレ属性であり、「お日様」の奈々生と「水」の瑞希はハレ属性。
だから、巴衛と悪羅王は仲良しだし、奈々生と瑞希も仲良し。
4人兄弟のうち、気の合う者同士で仲良くなったのだ。
桃丹と桃缶:巴衛と悪羅王を浄化するアイテム
桃アイテムは桃丹の他に、桃缶があったということに気が付いた。これも対比である。
桃丹 ⇒ 巴衛
桃缶 ⇒ 悪羅王
過去編で奈々生が巴衛と悪羅王に桃丹と桃缶をそれぞれに与えるのは、500年前から奈々生(神様)が彼らの浄化(ケガレをはらうこと)をスタートしたということ。
これが浄化の始まりである。
第15巻第88話 |
「これが嵐の幕開け」(第15巻第88話)というのは、500年前に奈々生と悪羅王が会った時のモノローグである。モノローグの主体は不明である。
これは、悪羅王の浄化が500年前からスタートしたということだ。対比である巴衛についてもまた、500年前から浄化が始まったのだ。
巴衛が奈々生に感じた「甘い匂い」は「桃」の匂い。
悪羅王が桃缶をうまうまと食べるのは「桃」たる奈々生に惹かれていることの象徴だ。
巴衛と悪羅王がそれぞれ奈々生に感じたのは、桃に象徴される「邪気をはらう清らかさ」=「闇夜のケガレをはらう日の光」=お日様(神様)である。
奈々生はほぼ本編の全編にわたって荒れる巴衛と悪羅王を浄化、すなわち、鎮めることに尽力し、最終的に「鎮められた火」と「鎮められた嵐」とする。
「嵐」が鎮められて「霧」になり(霧仁)、最後に「霧」が「日の光」に照らされてキラキラと輝く存在=光の属性(綺羅羅)に転じたということだ。
人間を虫けらのようにさんざん蹂躙した悪羅王は、おびただしい「死」がまとわりつき、まさに鬼=ケガレそのものだった。
現代の「器」も「死体」であり、ケガレ属性だった。霧仁の状態でも人間を傷つけている。
さらに闇夜の化身たる夜鳥に憑りつかれた。
悪羅王は、ケガレがひどすぎて、霧仁のままでは「心」は救われても「器」はもたなかったのだ。
もう一度生まれ変わることでようやく光のほうの存在になれたのだ。
巴衛(火)・瑞希(水)・悪羅王(嵐)の関係性
巴衛(火)・瑞希(水)・悪羅王(嵐)がそれぞれ惹かれた奈々生の本質は「お日様」である。
彼らはそれぞれ奈々生に対する想いを、
巴衛「生涯の伴侶」
瑞希「神様」
悪羅王「面白い女」
に昇華していくわけである。
「甘い匂い」:巴衛にとっての奈々生とは
巴衛は奈々生が「甘い匂い」がすると言っていて、私は今まで「花」の匂いだと思っていたのだけれど、違う。
「桃」の匂いだ。
「桃」は邪気をはらう清らかなものである。黄泉から脱出するイザナギが桃の実で追手を追い払ったことからも伺われる。
また、年末闇市エピソードで、トクトクの木(「良質な香木で邪気払いにも効果がある」)を奈々生が「甘い香りがする」と言っている(第11巻)ことからも、「甘い匂い」とは「邪気を祓う清らかなもの」を指す。
奈々生=桃=邪気をはらう清らかなもの
だから対比の夜鳥は
夜鳥=悪臭=ケガレ
巴衛が「花」とか言うから紛らわしいのだ。やはり「本質」についての彼の台詞はあてにならない。
彼が惹かれた「甘い匂い」は「花」ではなく「桃の実」、つまり神話上の「邪気をはらう清らかさ」であり、闇の穢れを浄化する「お日様」の力であり、つまりは「神様らしさ」のだ。
「桃缶」:悪羅王にとっての奈々生とは
奈々生の桃缶をおいしそうに食べる悪羅王も
奈々生の精気をおいしそうに取り込む霧仁も
いわば対比である。
「お腹を空かせた子ども」なのか
「まだ愛を知らない子ども」なのか・・・
桃=邪気をはらう清らかなものなので、「清らかなもの」=奈々生が気に入った端緒ともいえる。
悪羅王が「桃の実」を気に入るのは、奈々生に惹かれているということであり、また、「桃」は、神話上の「邪気をはらう清らかなもの」であり、闇の穢れを浄化する「お日様」の力であり、つまりは「神様らしさ」のだ。
奈々生の精気が霧仁になじんだ理由に説明はなかったけれど、おそらく、
悪羅王が桃缶を気に入ったのと同じような理由なのだろう。
悪羅王が奈々生に惹かれたものの本質もまた、「神様らしさ」である。
どういう感情なのかはわからないけれど、「大切な存在」なのだ。
だからこそ、精気を取り込んだ悪羅王は、温かく感じたのだ。
【神話目線での解釈】
悪羅王にとっての奈々生の位置づけについてはいろいろと解釈の余地があるのだけれど
神話の須佐之男命ポジションだとすれば甘えん坊な末っ子。
色々迷惑かけたのも「姉に対する過度の甘え」。
奈々生が許してしまうのも「手のかかる一番下の弟」ということか。
神話だから神様の生まれ方も色々複雑だけど、ざっくり言えばカグツチ(火)もスサノオ(嵐)も兄弟。
巴衛が悪羅王の面倒を見ていたのも、いろいろ酷い事をされても許してしまうのも、やっぱり悪羅王は
「手のかかる一番下の弟」
ということだろう。
後日談で描かれた、巴衛、奈々生、綺羅羅の様子は、まさに、この三人の関係性を描くものだ。