2020年10月13日火曜日

「神様はじめました」考察 自由と意思③ 巴衛の「意思の自由」と奈々生の「自由な意思」 自由な意思に基づく自己決定による自己実現

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


巴衛は「自由」、奈々生は「意思」

巴衛の一番大切にしている価値は「自由」であり、

奈々生が一番大切にしている価値は「意思」であったのだ。

それぞれの大事なもののために奮闘し、最後の選択をしたのだ。最終話でそれは示されている。

    「いいなあ自由で…」⇒巴衛

    「自分たちが選んだ人生の途中にいる」⇒奈々生


巴衛は「自由」が至上の価値だから、奈々生にも「自由」に生きてほしい。

沼皇女と小太郎の縁結び

「帰りたくないのならここに残っていればいい」「お前はここに残りたいのだろう 人の世に……」(第1巻第5話)

鳴神編

「お前の好きにすればいい ここは人間の世界だろう」(第2巻第10話)

鞍馬山

「お前がそうしたいというなら俺は別に止めないよ」(第10巻第60話)

「人の命は短いからな 生きたいように生きた方がいい あいつがここに残りたいと言うなら俺は止めないよ」(第10巻第60話)

突き放してるようにきこえるけど巴衛なりに奈々生の為を想っての言葉だったのだ。

ただし、これらの言葉は奈々生との「関係性の解消」までを含むものである。その根底にあるのは、「人間は弱いから求めたくない」という人間アレルギーである。

だからこそ、過去編後に奈々生とお付き合いをスタートしてからは少し言い方を変えるのだ。奈々生との「関係性の継続」を前提としたうえでの「背負われたくない宣言」である。


一方、奈々生は「意思」が大事。

そして彼女はこの物語の冒頭から外的トラブルに見舞われ続ける。

そんな彼女が自分の「意思」を貫き続けるためのモチベーションとなるのが、巴衛を守ること、支えること、助けてあげること。

鳴神編、過去編、悪羅王・夜鳥編で浮かび上がる彼女の基本的な向き合い方だ。


それに対して、巴衛は、奈々生に「背負われている」と感じ、拒絶反応を示す。それは、「同じ目線」がいいとか、「頼ってほしい」というのもあるけれど、奈々生に「自由」に生きてほしいという想いもあるのだ。

自分を背負うために奈々生が自分を犠牲にしたり抑圧してほしくないのである。

「お前に背負われて生きるなど考えただけでイラつく」(第2巻)

「俺はお前と一緒に笑って同じ時を過ごしたいだけだ お前に思いやってほしいわけでも背負ってほしいわけでもない お前にとって俺は辛い時に辛いと泣き言一つ聞かせられないような甲斐性のない男か」(第22巻)

一見乱暴に聞こえる、一連の背負われたくない宣言も、奈々生に不自由になってほしくないからだ。辛い時は自分以外の誰かに対する思いやりで笑顔を作るのではなく、心の赴くままに辛いと言ってほしいのだ。

「望む人生を歩け」という言葉も同趣旨である。

第24巻第143話

 

「お前が金銭に憂いていれば俺が賄うだけのこと 夢を見たいなら見せてやる だから望む人生を歩け どこだろうと隣には俺がいる 俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話)

第24巻第143話

奈々生が張り切り大黒柱になっている(第24巻第143話)のは、まさに「人間となって人間社会で生きていくことを決めた巴衛を支える」という目標に突き動かされている。巴衛の「人間になりたい」という願い(意思)を応援しているからだ。

一方、巴衛は奈々生が生活費の捻出のためにやりたいことをやらないまま時間や進路を犠牲にすることのないようにしてあげるのだ。奈々生に自由に生きてほしいからだ。


私が巴衛に夢を見てるように巴衛も私に夢を見てるんだ(第24巻第143話)

お互いに夢を見ているとはそういうことだ。

巴衛は「奈々生を支える」ことで奈々生の「自由」を実現するという夢をみており、

奈々生は「巴衛を支える」ことを通じて巴衛の「意思」を実現することに夢をみている。

一連のすれ違いも、お互いを思いやるが故のすれ違いだった。

最終的に巴衛が「自由」とは「意思の自由」を言うものであると知り、奈々生が「意思」「心」を大事にしているのもわかって奈々生の行動原理も理解できて、お互いもっと仲良くなれたのだ。

つまり、最終的に、二人のそれぞれの至上価値が再定義されたのだ。

巴衛の「自由」が「意思の自由」となり、奈々生の「意思」が「自由な意思」となった。

巴衛は「自由」からスタートし、奈々生は「意思」からスタートした。最終的に二人は大切にするものが「自由意思」であり、同じであったことに気が付くのだ。だからこそ、自由意思に基づく結婚をして二人で社を出ていくのである。



巴衛の「意思の自由」と奈々生の「自由な意思」


巴衛・・・精神の制約された物理的自由はその本質において「自由」ではない。「自由」とは「意思の自由」をいう。

奈々生・・・意思形成過程において自由が制約された状態でなされた意思は自己決定に基づく意思ではない。自由が確保された状態で形成された意思こそが自己決定に基づく意思である。


巴衛が神と神使の契約を破棄するのは「意思の自由」がないから。

⇒自立の為社を出る。

奈々生が自分で未来を決めるのは「自由な意思」で選ぶため。

⇒巴衛を支えたいという意思に基づいて社を出る。

⇒巴衛についていかず周囲を思いやって社に残るとしたら自由な意思で進路選択したと言えなくなる。


巴衛が社を出て人間になるのは、「意思の自由」=「心の自由」を手に入れる為。

奈々生が神をやめて社を出るのは、巴衛と生きたいという自分の「願い」に素直になるため。




鞍馬山再訪時:「意思」が「自由意思」に再定義


鞍馬山再訪時に奈々生が向き合ったのは、まさに、自分の「意思」に基づく生き方の選択。

心配してくれている鞍馬山や巴衛自身のことを想えば、自分が少しでも長生きする選択をするべき。でもそこに「どのように思うか」の自由はない。

短くてもいいから最後まで巴衛の側にいたいというのが彼女の本当の願い。だから、巴衛に会いたいと言って鞍馬山を出ていく。刹那的だけれど、そこで形成されたのは、「どのように思うか」の自由に基づく意思。まさに自由に思った結果によるもの。このとき、奈々生にとっての「意思」が「自由意思」に再定義された。

(もう自分の声を無視しない 生きたい そう思って私は生きるよ 最期のその時まで さぁ前に進もう)(第21巻第124話)


過去編:「意思」はあっても「自由意思」ではない


そもそも、過去編の奈々生は「意思」はあっても「自由意思」はなかった。ルール上やむを得ないけれど、彼女が「どのように思うか」の自由は制約されていた。

ルール度外視すれば、「奈々生だ」とあの時言えたらよかったのだ。言えなかったのは、予定された未来に沿う為。過去を変えないため。そして、巴衛や瑞希を思いやったからだ。過去の巴衛については、雪路との縁を邪魔しないため、現代の瑞希については、ヨノモリ社で孤独にしておかないため。

でも過去を変えないというルールだって、他の誰かが決めたルール。誰かを思いやり自分の願いを抑えるのも、自分の意思を抑圧すること。

奈々生の自由意思は制約されていたことは変わらない。

もしあの時「自分は奈々生だ 雪路じゃない」と言ったとしても、彼女は現代人だからいずれにしても巴衛と500年前で結ばれることはない。過去を変えれば現代での奈々生と巴衛の出会いもなくなる。さらに奈々生自身が生まれなくなってしまう可能性が高い。

だから奈々生の選択はやむを得ないものだったけれど、その代償として、奈々生は自分の自由意思を殺し、巴衛は500年の孤独を味わい、また、ミカゲと「神と神使の契約」を結んで意思の自由を抑圧することになった

だから、過去編の後の展開(第18巻~第24巻)は、500年前に代償とした「奈々生の自由な意思」と「巴衛の意思の自由」を回復する物語でもあったのだ。


「二人で」社を出ていくことの意味


巴衛は「自由」からスタートし、奈々生は「意思」からスタートした。最終的に二人はお互いが大切にするものが「自由な意思に基づく自己決定」であり、同じものを目指していたことに気が付くのだ。だからこそ、自由意思に基づく「ずっと一緒にいる約束」、すなわち、「結婚」をして二人で社を出ていくのである。