本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
「神と神使の契約」の本質とは
そもそも、『神様はじめました』で描かれているキスシーンには以下の4パターンがある。
① 神と神使の契約
② 黒麿との契約
③ 霧仁が奈々生の精気を奪う
④ 巴衛と奈々生が恋人としてするキス
このうち③(霧仁が精気を奪う)から帰納的に考えた場合に、①~③のキスシーンは、何かを奪うためのものである。
② 黒麿との契約の本質は、黒麿と運命を共にするという点で、生き方の自由を奪うものだ。
そして、
① 神と神使の契約の本質は、神使となる人外の生き物の自由を制約するものであり、いわば「自由意思を奪う」ものだ。
巴衛の欲望が抑制されるのはその表れである。
「ずっと一緒にいる約束」としてみた場合の違いは
「神と神使の契約」は、「言葉」を要しない「口づけ」で成立する約束である。それは、元々が「言葉」を持たない生き物(動物その他人外の生き物)との契約だからだ。
一方、「結婚」は、「言葉」で成立する約束である。
「言葉」は、大自然の脅威の前に個体レベルでは弱い人類が、自分の「心」を認識し、他者に伝え、他者の「心」を認識するために獲得した最強のツールである。
「結婚」もまた双方の自由意思に基づく合意であり、だからこそ、「言葉」で申し込み、「言葉」で承諾する。双方の意思表示である。
結婚は成立もその後の維持も、双方の意思に基づく。
一方、「神と神使の契約」は「口づけ」で成立し、そこには双方の自由意思の表明と合致が存在しない。そこにあるのは神の意思のみである。
神使側の意思が徹底して制約されるのも、そもそも契約関係の成立・維持に、神使側の意思が不要だからだ。
「今は神と神使の契約だがそんなもの早くなくなればいいと俺は思っている」(第24巻第142話)
第24巻第142話 |
24巻で、巴衛が「神と神使の契約」など早くなくなればいいと発言するのは、火の山の頃に、「自由」の本質は「心の自由」即ち「意思の自由」にあることを認識し、自由意思の制約の象徴でしかない契約関係を早く解消したいからである。
「ずっと一緒の約束のしるし」(第2巻第12話)としてかわした「神と神使の契約」の本質が、「自由意思」の制約となっていることの意味を理解したのである。
ミカゲ社に帰った後に再契約するのは、「ずっと一緒にいる約束」の証でしかない。
巴衛の根底にあるのは「自由に生きたい」という彼の本質的欲求である。
であるからにして、巴衛は「ずっと一緒にいる約束」を「神と神使の契約」から「結婚」へアップデートするのだ。
最後に結婚するために、巴衛は「言葉」で申込み、奈々生もまた「言葉」で承諾するのである。
それは「ずっと一緒にいる約束」が双方の自由意思の表明と合致に基づくことの何よりの証なのである。
「名前」の重要性
また、契約関係が成立するにあたっては、目的が特定されていなければならない。「結婚」という人的関係の成立に際しては、合意の対象である両者が誰かが特定されていなければならない。
であるからにして、相手の名前を知らないで「結婚」の合意が成立する筈もないのである。
過去編では巴衛が、十二鳥居では奈々生が、それぞれ相手の名前を正しく把握していなかった。だから、双方の間に結婚が成立しなかったのである。
最後のプロポーズで、巴衛が「奈々生」ときちんと名前を呼んでいるのはその意味がある。
名前もまた、「言葉」で人物を認識し、特定するツールだ。
本作品で徹底的に描かれているのは、「言葉」「心」「名前」の重要性だ。
「自由意思」に基づく恋人関係
一方、口づけには④の恋人同士としてのキスもある。
これは前提として双方に自由意思の合致に基づく恋人関係が成立しているがゆえにされるものである。だからこそ、エモいシーンとして描写されているのだ。
一方的なキスに奈々生が怒るのはその対比だ。
だからこそ、「心」が大事だと認識した巴衛は、「火の山」のような「熱い想い」を奈々生に対して持っていたとしても、奈々生の自由意思を尊重し、おそらく「結婚」が成立するまで待つのである。「やっと俺のものだ」発言(第25巻)から察するに。最終的に「心」を尊重することが彼女を笑顔にすると知ったからだ。
「神様はじめました」考察 「今は神と神使の契約だが」とは?「ズルい男」とは? 神使の契約の位置づけと巴衛のあり方について
「神様はじめました」考察 言葉②「人の痛みのわかる狐でしょ!」(第16巻第93話)