※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
喪失への恐怖
過去編後の日常回の、
(大好きな巴衛 生きて目の前にいる 私を待ってる)(第18巻第102話)
という奈々生のモノローグは、まさに巴衛自身も同じであろう。喪失したと思っていた想い人が生きて目の前にいるということの喜びを噛みしめているのは彼も同じだ。
むしろ「生きて」というワードは、巴衛から奈々生への向き合い方の方が当てはまる
(壊れないように 壊さないように)
過去編前までは無意識レベルだった喪失への恐怖が
過去編後は意識レベルに浮上し
それがその後の一連の巴衛の言動につなるのである。
「俺を置いていくな…!」(第19巻第108話)
「今後一切俺の許可なしに軽はずみなことはするな どこかへ行きたければ行き先と行く奴と帰宅時間を俺に言え」(第19巻第113話)
第19巻第113話 |
「六十年しかお前と一緒にいられないのか…」(第20巻)
第20巻 |
「俺は人間になると言ったらなる 五百年前の二の舞は御免だ」(第20巻第117話)
(やっと捕らえたと思ったのに今度も笑っていってしまうのか)(第22巻)
「そうやって笑いながらまた俺の前からいなくなる気か」(第22巻)
第22巻 |
ここで描かれているのは無邪気な独占欲ではなく、過去の喪失経験によるトラウマの表れであり、見ていて痛々しい。
「心」を重視する世界観では、奈々生と霧仁のキスも、それ自体は人命救助の為であり、罪ではない。
むしろその結果として奈々生が命を縮め、巴衛に喪失の恐怖を再度味合わせたことが重大なのだ。
だから「傷つけたんだ」「傷つけたくなかったの」という台詞が出るのである。
巴衛が怒るのも仕方ない…私巴衛を傷つけたんだもの…(第19巻第113話)
奈々生は精気を分けることの結果を知らなかったから気の毒だけれど、そもそも命がけの人助けに邁進すること自体が「奈々生と共に生きたい」という巴衛の心からの願いをいわば軽んじる結果となる。
だから、最終的に、奈々生も、「その先にいるのは巴衛」=巴衛が星=生きる指針=生きるモチベーションだと気が付いて、命がけの人助けから引退するという流れになるのである。
一方、奈々生が命がけのひと助けまで邁進するのは、おそらく、幼少期の無力だったころに何もできず母を死なせたという、彼女自身の喪失経験によるものである。
しかし、奈々生が命がけの人助けを続けるままでは、巴衛はいつまでも喪失の恐怖に怯えねばならないので、奈々生自身も変わる必要があったのである。
それが「無理をしない」ということであろうし、また、もっと周囲に頼り、周りの人を巻き込んで物事の解決にあたるということであろう。
幼い頃に母を失い「一人で太る」しかなかった彼女にとって周囲に頼るというのは難しいことだったに違いないが、それもまた克服していく。過去編はその一つだ。