2020年10月15日木曜日

「神様はじめました」考察 「誰が悪いという話ではありません」 (第21巻第121話)

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


タイムトラベルによるループ


現代の巴衛の有り様は、過去の奈々生の行動の影響

過去の奈々生の有り様は、現代の巴衛の行動の影響

グルグルとループしている。


巴衛の人間アレルギー

現代の巴衛の人間アレルギーは、過去に時廻りした奈々生と出会ったことに起因する。

過去に奈々生が時廻りしたのは、現代の巴衛を救うためである。


雪路との縁結び

奈々生が過去の巴衛と雪路の縁結びをしようとするのは、かつて龍王篇の時廻りで過去の巴衛が雪路に寄り添う姿を見たからだ。

過去の巴衛が雪路に寄り添っていたのは、過去に時廻りした奈々生が雪路のふりをしたからだ。

巴衛と黒麿の契約

過去の巴衛が黒麿と契約をしたのは、過去に時廻りした奈々生と出会ったからだ。

奈々生が過去に時廻りしたのは、過去に黒麿と契約をしたが故の呪いに苦しむ現代の巴衛を助けるためだ。

人の痛みのわかる狐

「巴衛は…悪羅王とは違う 人の痛みのわかる狐でしょ!」(第16巻第93話)

奈々生の言葉により、巴衛は「人の痛みがわかる狐」である自分を自覚した。

奈々生は現代の神使巴衛を思い出して過去巴衛に「巴衛は人の痛みがわかる狐でしょ」と言ったのだが、現代の神使巴衛が奈々生の前で殺生を控えるのは奈々生が過去で発した言葉のおかげである。



「誰が悪いという話ではありません」 (第21巻第121話)

タイムトラベルもの故のループを通じて浮かび上がるのは、原因と結果の「因果応報」的思想に囚われていても、目の前の課題を解決しないということだ。

巴衛と奈々生、どっちが悪いという点を追及する前に、まず、目の前の課題を解決することに注力しなければならない。

神道では不幸が起こることも自然の一部と考える。因果応報のようなとらえ方をしない。

狐火仕様の台所についての問答はこのような考えを示している。

巴衛が狐姿になり、奈々生が料理をする。

奈々生は台所でボヤ騒ぎを起こす。

台所の火器が狐火仕様のため、奈々生が使いこなせないのだ。

巴衛(火)に振り回される奈々生(神)の姿を描くものであり、同時に、

「火事」という自然現象に対して、人間がどのように向き合ってきたかを描くものである。

因果応報論によって立つならば、「火事」を起こした者が悪いということになり、犯人探しが始まる。台所を使いこなせない奈々生が悪いのか、それとも、狐火仕様の台所にしておいた巴衛が悪いのか、という議論が始まる。まさにこれが因果応報論に基づく考え方である。

一方、神道では、因果応報論のようにはとらえず、発生した不幸は自然の一部ととらえて祈りを捧げる。ここでは、犯人捜しはさておき、発生した火を消しとめることに注力するミカゲの描写に表れている。


第21巻第121話


「大丈夫落ち着いて奈々生さん 君が台所を焦がすのは別に初めてではありません 今日で三度目です」

「お言葉ですがミカゲ様 奈々生ちゃんのせいではありません この台所の火器は全部狐火仕様なんです 悪いのは巴衛君です」

「誰が悪いという話ではありません 瑞希くん 落ち着いて二人共」

(第21巻第121話)


直接的には狐火仕様の台所についての会話だが、ミカゲの台詞は、物語先般における巴衛と奈々生のすれ違いについて、どちらが悪いという話ではないということを説くものだ。

目の前の火を消し止めるならば、まずは火を消すことに注力しなければならない。

すれ違いが起きた時にまず大切なのは、今の目の前にいる相手を信じて、今を生きる自分の心を信じて、「言葉」にのせて「話し合う」ことなのである

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過去編~悪羅王・夜鳥編までの巴衛と奈々生は「すれ違い」がある。

過去編で奈々生は過去の巴衛と向き合うことを回避している。過去を変えないという禁忌と巴衛と奈々生の縁を邪魔しないという「思いやり」によるものだ。しかし、巴衛目線では、奈々生が自分に「名前」も言わず、事情も話さずに消えたということであり、奈々生が巴衛と向き合うことを回避したものである。

過去編終盤で、目覚めた奈々生が「まだ夢見心地なの 巴衛が生きてて良かった…」という明るい表情であるのに対して、巴衛は視線を外す。「確かに今のお前は昔の俺が会ったままだな」「・・・だから雪路は俺に・・・・・・なかったのか」と独り言を言って、いなくなる。これは要するに、巴衛が奈々生と向き合うことを回避したということなのだ。

また、悪羅王・夜鳥編で、奈々生は巴衛に対して寿命問題について黙っている。巴衛と向き合うことを回避したのだ。


巴衛と奈々生、二人の一連の「すれ違い」は、相手と本心で向き合うことを回避したことによるものだ。

根本にあるのは「相手を信じる」ことの大切さだ。

相手を信じれば、事情を説明して相手の選択に委ねられる。

相手を信じれば、その言葉を理解し、本質を見ることができる。

すべては「信じること」から始まる。

そして、信じる心を相手に伝える最強のツールである「言葉」で「話し合うこと」から相互理解は始まるのだ。


過去の経緯を無視しろとは言わない。しかし、まず「すれ違い」の解決に必要なのは、今を生きる巴衛は目の前の奈々生を信じ、今を生きる奈々生は目の前の巴衛を信じ、それを「言葉」にのせて「話し合う」ことなのだ。それが相手と誠実に「向き合う」ということである。

「過去」や「未来」の誰かに原因を求めても、目下の「すれ違い」という事象は解決できない。前に向かって進むためには、まず目の前の火を消し止めなければならない。

他でもない、「今」を生きる自分の気持ちに素直になり、「今」を生きる相手を信じて、素直な気持ちを「言葉」にのせること。それが「話し合い」であり、相互理解のスタートラインなのだ。

過去の経緯や理由の説明は、話し合いを始めてからすればよいのである。