2020年10月4日日曜日

「神様はじめました」考察 「道」とは何か

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。


今回の考察内容


『神様はじめました』は、自分の「心」との対話を通じて神様に向き合うという日本古来の神様の世界をモチーフに、思春期に揺らぐ少年と少女の「心の成長」を描いた物語である。作品のテーマを理解するには、読者も神様と向き合うように、私欲を捨て、鏡をみて、対話しながら読まなければならない。(詳細は、「神様はじめました」考察 物の本質をみる(17) 「大人になっちゃうんだよ」 少年と少女の心の成長を描いた神漫画


今回は、本作で描かれた「道」とは何か、そして神様たちの位置づけについて考えてみたい。

本作では、巴衛と奈々生がそれぞれ「道」に迷うエピソードが幾つか描かれている。

当初「道」に迷った場合は神々に導いてもらうのだが、次第に、みずから「道」を見出すようになる。

俯瞰すれば、「道」とはすなわち「生き方」である。大人に導いてもらっていた子どもたちが次第に自分で生き方を見つけるのだ。



瑞希とはぐれ、神議りの会場への行き方に迷う奈々生(第7巻第40話)

奈々生は、出雲の神議りの会場への行き方に迷う。

「道に迷ったの?」(第7巻第40話)

助けたのはミカゲである。

「神様」とはすなわち「精神的に成熟した大人」の象徴でもある。

神議りの間への行き方を迷う奈々生の姿は、「大人になるための生き方」について迷う少女の姿と言ってもいい。

第7巻第40話
「この中に入っても私にできることはないかもしれない…」(第7巻第40話)
しかし、奈々生はミカゲの励ましの言葉を受けて、扉を開けるのだ。
(この扉を開けても きっと 私にできることはある)(第7巻第40話)
奈々生は勇気をもって大人の世界に飛び込んでいくのである。

巴衛との関係性・向き合い方に迷う奈々生(第11巻第65話)

「迷子なの? おじょうちゃん」「あなた道に迷ってる相が出ているわ 答えを知りたがってる」 

(私は巴衛になんて思われてる?) 

(第11巻第65話)

ここでいう「道」は、巴衛との関係性である。このウサギの易者は、奈々生が道を見出すのを助けるのである。おそらくこのウサギの易者の正体は神または神の使いである(詳細は、「神様はじめました」考察 うさぎ なぜ出雲大社にはウサギがいるのか?うさぎの易者の正体は?)。

(不思議 たった一輪花を介しただけで巴衛の言葉が優しく聞こえる)(第11巻第66話)

巴衛のそれまでの言葉(「ただの連れだ」)や態度(寝間着姿に対する冷たい目線)に奈々生は自信を失っているのだが、花を見て、巴衛の言葉や態度などの外面ではなく、内面の優しさを見ることを思い出すのである。

このウサギの易者は、巴衛には「ものの本質を見る」ことを教えるのだが、奈々生にも同様に「ものの本質を見る」ことを教えているのである。奈々生の場合は「本質を見るように」と敢えて言われなくても、占いの結果表れた「花」を見て本質を見出だしており、如何にも巴衛と対照的である。


過去編の時廻りにおける黒麿


過去編の時廻りにおける黒麿もまた、巴衛の呪いを解くための奈々生を導く道しるべのような存在であった。

「あの時廻りの中貴方が行く先を照らしてくれた たった一人で過去を巡る私にとってその光がどれだけ心強かったか」
「あなたが私を導いてくれたんです」
「ありがとう黒麿さん」
(第24巻第138話)

火の山での巴衛と奈々生(第24巻第138話・第139話)


火の山で、自分を捨てかけた巴衛は奈々生を思い出し、やめる。
俺の未来は 道の先にいるのは 奈々生だ
あの時俺の中のお前が止めてくれなければ俺も自分を捨てていたかもしれない お前がいなければ…
こんな体たらくでは…先が思いやられるな だが奈々生がいる 愛する者がいれば 俺たちの未来に何があろうと 道に迷うことはない 
(第24巻第139話)

これに先立つ第138話では、「道」というキーワード自体は出てきていないものの、奈々生も同様に、巴衛を道しるべとしている。火の山へのぼる奈々生のモノローグだ。

いつも私は巴衛を捜してる 

私の命 結果的に霧仁に預けた形になったけど 元気だけがとりえの私が あの時は本気で未来が見えなくなった

悲しかったことも 辛かったことも 今思えば 宝物のようだった

炎の中導いてくれるこの光みたいに 何もかもが糧になって今私をここに立たせてくれた

光の方へ進むために理解しないといけないことをわからせてくれた

その先にいるのは巴衛

私が辿り着くのはいつも巴衛のいるところだよ

(第24巻第138話)


「道」と「神様」


奈々生や巴衛は、当初、「道」に迷った場合は神々に導いてもらうのだが、次第に、みずから「道」を見出すようになる。

俯瞰すれば、「道」とはすなわち「生き方」であり、神様は生き方を導く「大人」である。大人に導いてもらっていた子どもたちが次第に自分で生き方を見つけるのだ。

『神様はじめました』においては、奈々生も巴衛も実の親がいないわけだけれど、彼らを見守るいわば「大人」の存在として登場するのが、ミカゲ様、大国主様、乙比古神、イザナミ様である。

  1. ミカゲは物語全般において、奈々生の生き方を導く存在である。
  2. 乙比古神は奈々生に器に囚われず心の眼でモノの本質を見ること、式神の使い方を教える。
  3. 大国主は奈々生の神格を上げさせ、神としてのあり方を教える。巴衛を人間にするのも大国主だ。
  4. イザナミは、巴衛に人間の強さの本質を理解させ、人間になる動機をグレードアップさせる。奈々生には死後の行き先を教える。

基本的に本作は主人公二人の成長物語であり、長編であることも考えると、「大人」の存在は欠かせないけれど、その役割を果たすのが神様というのが本作ならではの特徴。

親もそうだけれど、学校の先生も全くもって影が薄い。主たる舞台が神と妖の世界だからだろう。

過去編では、奈々生はそれまで見守ってくれていた「大人たち」から離れて活動するわけだけど、雪路は温かさを感じても使命を相談できる相手ではないし、黒麿さんは導く光ではあっても距離感があるから、それまでの大人とのかかわり方とは異なる。

過去で独りで奮闘するわけである。500年前の日本は騒乱の最中。トラウマレベルの事件の数々。

物語後半の奈々生はますます神様らしい女の子となり、初期の頃とかなり変わってしまっているのだけれど、やっぱりこの過去で「大人」と離れて独力で頑張ったという体験が彼女を大きく成長させたのだろう。