2020年10月15日木曜日

「神様はじめました」考察 自由と意思④「余計な気をつかって勝手に立ち回るな」(第4巻第19話)

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。

今回の考察内容


今回は、「自由」を至上価値と仮定した場合の過去編終盤の行動と黄泉での問答の解釈を試みた。過去の顛末を知った巴衛が何を思ったかについての説明描写が省略されているからここはいろいろ解釈の余地があると思う。


過去編終盤、なぜ巴衛は復活後すぐに出かけてしまうのか?

過去編終盤、第100話での再会の後、巴衛はミカゲから事情をきき、奈々生の顔を見て最終確認をした後、いなくなってしまう。


奈々生に巴衛が向き合わないで朝ごはんを置いて、かんざしを作り直しに出かけてしまうのは、なぜか?


第17巻第101話


ご飯を食べさせるのは奈々生に対する巴衛の愛情表現だ。かんざしを作り直しに行くのも求愛の為だ。彼は「言葉」を軽視しているから、彼の愛情表現は「行動」で示されているのである。

しかし、やはり巴衛なりに思うところがあったのだろう。

目覚めた奈々生が「まだ夢見心地なの 巴衛が生きてて良かった…」という明るい表情であるのに対して、巴衛は視線を外す。「確かに今のお前は昔の俺が会ったままだな」「・・・だから雪路は俺に・・・・・・なかったのか」と独り言を言って、いなくなる。

これは要するに、巴衛が奈々生と向き合うことを回避したということなのだ。

なぜ巴衛は奈々生と向き合うことを回避したのだろうか?

巴衛は、ミカゲの説明を受けて、雪路を助けたことがひいては奈々生の為にもなったというのは理解した。でも同時に奈々生が自分に「名前」も言わず、事情も話さずに消えたことに思うところがあったのだろう。あるいは傷ついたのかもしれない。

彼の「選択の自由」は奪われたのだから。

そもそも、初回の神と神使の契約はさておき、2回目と3回目の契約は巴衛は自分の意思で決めている。巴衛は、関係性を構築するかどうか自分で選ぶのだ。

にもかかわらず、奈々生が別人の雪路との縁結びのために立ちまわっていたなんて知って、苛立ちを感じなかったわけはないのだ。誰よりも自由を重んじる狐だから。

黄泉で寿命問題を隠していたことを知って、苛立ちを露わにする(第22巻第131話)のも、やはり奈々生が事情を離さないことにより、彼の選択の自由が奪われたからなのだ。知らなければそもそも対処もできないのだから。

加えて、自分が斬り捨てた悪羅王の記憶も蘇っている。明るい表情にはなれないのだ。

おそらく巴衛はかんざしを作り直す間、彼なりに気持ちの整理をつけていたに違いない。だからこそ、戻ってきて奈々生と会う時は割り切った顔をしているのだ。巴衛なりに過去の記憶と折り合いをつけて、奈々生と新たな関係性を構築することを決めたのだろう。それでかんざしを渡したのだ。

第17巻第101話

希望に満ち溢れた、感動的な締めくくりで終わった100話だったが、それに続く101話は、どことなく仄暗い空気を漂わせるものであった。描かれた時間軸が夜だったり、夕暮れ時だったり、背景自体がそもそも薄暗い。

巴衛の心情若しくはその後の展開を表象するかのようだ。100話で一度は合致したはずの二人の気持ちがかみ合っていないということ、霧仁一味の謀略の予感など、巴衛と奈々生の薄ぼんやりとした不安感を投影したものかもしれない。



なぜ奈々生は過去の巴衛に名前を言わないのか?


巴衛は奈々生を責めないけれど、500年前の奈々生は大事なことを言わなかった。

彼女の「名前」だ。

名前を言わないのは、即ち「過去の巴衛と奈々生」の間に関係性を構築する意思がないということ。

それは過去を変えないというルール(禁忌)と、過去の巴衛に対する「思いやり」の為。

過去は変えないというルールと他者への思いやりを前提にした行動はやむを得ない。また彼女自身の存立にも関わる。

しかし、その結果、奈々生は自分の自由意思を殺し、巴衛は500年の孤独を味わい、また、ミカゲと「神と神使の契約」を結んで意思の自由を抑圧することになった。言わば他の誰かの為にする思いやりによる自由意思の抑制による代償である。

だから、過去編の後の展開は、500年前に代償とした「奈々生の自由な意思」と「巴衛の意思の自由」を回復する物語でもあったのだ。

奈々生が500年前の巴衛に名乗らないのは、彼女は未来で巴衛と出会うことを知っていたからだ。

未来の奈々生と巴衛に可能性を託せたから、過去の巴衛と向き合っている現在の自分の意思を抑制したのだ。

そしてそのように仕向けたのも20年前にミカゲに説明した未来の奈々生の意思である。

奈々生は、未来の自分の為に現在の自分の意思を抑制したのだ。


鞍馬山再訪時の再定義


この彼女の選択に根本的な問いかけがされるのは、鞍馬山再訪時、寿命問題に向き合った時だ。

「思いやり」や生きながらえる未来の自分に託すなら、ここでも奈々生は鞍馬山に残る選択をした筈だ。

しかし、今度は奈々生は「今」を生きる自分の意思を優先したのだ。鞍馬山で巴衛と離れて長く生きながらえるよりも、短くても良いから巴衛のそばで生きることを選択したのだ。

一見刹那的だが、今を生きる自分の意思を尊ぶ。ここに真の自由意思に基づく自己決定と自己実現が達成されるのだ。

読者は奈々生がその後助かるという結末を知っている。しかし、当時の奈々生の時間軸では如何にも破滅的ではないか。

にも関わらず彼女がそのような選択をするのは、自分の願いに素直になって自己決定したということ、つまりは、自己実現なのである。

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翻って鑑みるに、奈々生は500年前に巴衛に名乗り、事情を打ち明ける選択肢もあった筈である。雪路を助けなかったら自分が生まれないかもしれないなどという事情を当時の奈々生は知らないのだから。

にも関わらずそうしなかったのは彼女の思いやりと禁忌による自己抑制である。未来の為に現在の自分の意思を抑制したのだ。

それはしかし巴衛自身の「選択の自由」「意思決定の自由」を損ねるものであったし、おそらく、巴衛は傷つき、無力感を抱いたのだ。


「余計な気をつかって勝手に立ち回るな」人間女子・桜田ユミと縁結び(第4巻第19話)


奈々生の「思いやり」による行動が巴衛を傷つけるという展開のプロトタイプが、第4巻第19話の人間女子・桜田ユミと縁結びをさせかけた時だ。

「どういう了見だこれは 俺に人間の娘と仲良くさせたかったわけか 仲を取り持とうと気をきかせたつもりか? 目出度い奴だな 余計な気をつかって勝手に立ち回るな 神使(おれ)にとってお前以上に優先すべきことなどない 自覚しろ」(第4巻第19話)

つまりこれが巴衛が奈々生に感じている苛立ちの言語化なのである。



「黙っていることは 嘘と同じだ」(第18巻第104話より)


「黙っていることは 嘘と同じだ お前だって隠し事は嫌だろう」(第18巻第104話)


巴衛にとっては、奈々生が自分に事実を黙っていることが嫌なのだ。

事実自体を黙っていられると、それ以上前に進めない。対応を選択できない。行動選択の自由を奪われるからだ。

「お前だって隠し事は嫌だろう」というのは、奈々生自身が、遊園地デートのときに、「嘘は傷つく」と言っていることを指すのかもしれない。


奈々生としては

人間女子との縁結びや雪路との縁結び ⇒ 思いやり

合コンや霧仁にキスされた ⇒ 好きな気持ちを疑われたくない

寿命問題 ⇒ 思いやり

なのだけれど巴衛目線では「嘘」と同じこと。

まさに、「余計な気をつかって勝手に立ち回るな」と言いたいのだ。

巴衛にとっては人間女子との縁結びも、雪路との縁結びも、寿命問題を隠していたのも、「余計な気をつかって勝手に立ち回る」ものなのだ。なぜ奈々生がそのような思考パターンなのかもわからない。巴衛は「自由」を尊ぶからだ。

だから霧仁にキスされたことを奈々生が打ち明けた時は、ちゃんと受け止めた。奈々生が正直に言ってくれたからだ。その後一人になった時は物に八つ当たりしていたけれど。

「あのね…私…霧仁とキスしちゃったの ごめんね…」

「…いいよ お前が無事なのだから」

(第19巻第108話)

沖縄の修学旅行の宿泊先に戻った時に、「よその男にいいようにされやがって」と怒ったのは、奈々生が霧仁とキスをしたことに対してではない。それは奈々生を助けた時に奈々生が打ち明けて「いいよ」と言って完結している。むしろ、奈々生が霧仁に精気を奪われて死にかけたことを言っているのだ。まさに、奈々生の体を心配しての言葉だったのだ。

巴衛がデリカシーないのも、嘘をつけないからだ。

自分の気持ちに正直だからだ。

それは何よりも「自由」を重じているからだ。

そしてそもそも気遣いを知らないからだ。



思いやりが常に感謝されるとは限らない


相手を思いやってした行動が常に感謝されるものとは限らないのだ。

こと巴衛に関しては、余計なお世話になることもある。

それは特に奈々生が巴衛に黙って「余計な気を遣って勝手に立ち回った」とき。

余計な気をつかって勝手に立ち回るというのは、相手の自由意思を無視するから感謝されない。

つまり、あの人間女子と付き合うかどうかは、まさに巴衛の自由な選択に委ねるべきであり、勝手に縁結びされるのは大きなお世話。

同様のことが雪路との縁結びにも言えるわけである。

しかも、巴衛にとっては奈々生が最優先であるからこそ、奈々生自身に奈々生以外の女性と縁結びされるのは我慢できないわけである。

つまり、巴衛が奈々生の「意思」を軽んじていたのが目につくけれど、奈々生もまた巴衛の「自由」を結果的に軽んじていたわけだ。「思いやり」という彼女の価値観で。

お互いが自分の至上価値を相手に実現したいが故のスレ違いだ。


「お前に思いやってほしいわけでも 背負ってほしいわけでもない」(第22巻第131話)


奈々生と巴衛が向きあうのが、黄泉で寿命問題についての問答シーンである。

奈々生は寿命問題を黙っていた。

巴衛にきかれたときも、笑顔で取り繕った。


第22巻第131話


これに対して、巴衛はいよいよ本音で向き合うのである。


第22巻第131話

「俺の体のことなどどうでもいい どうしてお前はいつもそうなのだ 死が間近だとわかっていて どうして俺に黙っていた 俺に隠し事はしないと約束したではないか! そうやって笑いながらまた俺の前からいなくなる気か!?」 (第22巻第131話)

このとき巴衛の脳裏に浮かぶのは、500年前に別れた奈々生の姿である。

第22巻第131話


やはり、巴衛は、奈々生の500年前の行動(「名前」を告げず自分の前からいなくなったこと)を知った時(第101話)、隠し事をされていたことについて考えるところがあったのであろう。

黙っていたことには、奈々生なりの理由があった。しかし、奈々生の行動により、巴衛は傷ついたのである。そのことを、奈々生はこの時悟ったのである。

 (傷つけたくなくて取り繕ったことがこんなに巴衛を傷つけてる 何してるんだよ私…)

「ごめんなさい…巴衛を傷つけたくなかったの…」

(私が一番巴衛を傷つけてるじゃない) 

(第22巻第131話) 

この時の奈々生の「ごめんなさい」という言葉は俯瞰すれば、過去における奈々生自身の行動をも含めた謝罪の言葉なのである。

「俺はお前と一緒に笑って同じ時を過ごしたいだけだ お前に思いやってほしいわけでも背負ってほしいわけでもない お前にとって俺は辛い時に辛いと泣き言1つ聞かせられないような甲斐性のない男か」 
(第22巻第131話) 

「思いやってほしいわけでもない」というのは、奈々生の「思いやり」が時として巴衛に事実を伏せることまで含むからだ。

人間女子と付き合うか

雪路と付き合うか

寿命問題に直面した奈々生にどう向き合うか

それは巴衛自身が決めたいのだ。奈々生が「思いやり」という価値観で気を回して彼の意思決定の自由、選択の自由を奪うから巴衛は苛立つのだ

「背負ってほしいわけでもない」というのは、それが奈々生自身の行動の自由を制約するからだ。

「お前にとって俺は辛い時に辛いと泣き言1つ聞かせられないような甲斐性のない男か」 という台詞から伺えるとおり、巴衛は奈々生に本心を言ってほしいし、さらには、頼ってほしいのである。それはやはり奈々生が巴衛にとって生涯の伴侶だからである。

後に鞍馬が瑞希に奈々生と向き合うように話すときに「一番嫌なのは信頼している奴に本心を言ってもらえないことなんだぜ 怖がってないでちゃんと奈々生と向き合え」(第24巻第143話)と言うのだが、まさにこれが当時の奈々生と巴衛の状況にも該当するのだ。


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黄泉における巴衛と奈々生の問答は、直接的には寿命問題についての会話だが、俯瞰すれば、500年前に起きたすれ違いをも含む、一連のすれ違いに対して、お互い本心を言い、向き合っているのである。

巴衛が奈々生に本音をぶつけ、

奈々生が巴衛に自分の行動の理由を説明する。

巴衛は、奈々生が「思いやり」が故に「黙っていた」ことを知り、

奈々生は巴衛を傷つけたことに謝罪する。

ここに二人のわだかまりは解消され、さらに絆が深まる。だからこそ、二人は固く抱擁するのである。

第22巻第131話


すべては「信じること」と「話し合うこと」から始まる

根本にあるのは「相手を信じる」ことの大切さだ。

相手を信じれば、事情を説明して相手の選択に委ねられる。

相手を信じれば、その言葉を理解し、本質を見ることができる。

すべては「信じること」から始まる。

そのくらい信じられる相手が「よりどころ」であり「星」であり人生のモチベーションなのだ。

そして、信じる心を相手に伝える最強のツールである「言葉」で「話し合うこと」から相互理解は始まるのだ。


巴衛と向き合わない奈々生

黄泉での描写から帰納的に考えると、500年前にさかのぼった奈々生が、巴衛に事情を打ち明けたり、名前を名乗らなかったのは過去の巴衛と向き合うことをおそれたからだ。それはつまり、目の前の巴衛を信じていなかったということだ。

過去編で、奈々生が巴衛を信じられなかったのは、おそらく、過去の巴衛が妖怪そのものだったこともさることながら、現代の巴衛が「器」重視で「心」「本質」を軽視していたからだ。

多分決定的だったのは、巴衛が犬鳴沼で奈々生の魂を放ったらかしだったこと。それが彼女の「本質」だから。

そこから過去編に突入だから。やはりすべては延長線上にある。


奈々生と向き合わない巴衛

また、巴衛が過去編終盤に奈々生と向き合わないでいなくなってしまうのも、やはり、奈々生と向き合うことを回避したものだ。

それはやはり、巴衛も奈々生を信じていなかったからだ。巴衛にとって当時ミカゲがよりどころだったから。ミカゲの説明で納得したのがその表れだ。

そして、巴衛が「言葉」による「意思」の伝達を軽視していたからだ。「話し合う」ことから相互理解は始まるのである。

巴衛が本質や心をわからないのは彼が妖怪=自然現象の具象化だからだ。


誰が悪いという話ではない

しかし、どっちが悪いという問題ではないのだ。

神道では不幸が起こることも自然の一部と考える。

狐火仕様の台所についての問答はこのような考えを示している。


「大丈夫落ち着いて奈々生さん 君が台所を焦がすのは別に初めてではありません 今日で三度目です」

「お言葉ですがミカゲ様 奈々生ちゃんのせいではありません この台所の火器は全部狐火仕様なんです 悪いのは巴衛君です」

「誰が悪いという話ではありません 瑞希くん 落ち着いて二人共」

(第21巻第121話)

因果応報論によって立つならば、「火事」を起こした者が悪いということになり、犯人探しが始まる。台所を使いこなせない奈々生が悪いのか、それとも、狐火仕様の台所にしておいた巴衛が悪いのか、という議論が始まる。まさにこれが因果応報論に基づく考え方である。

一方、神道では、因果応報論のようにはとらえず、発生した不幸は自然の一部ととらえて祈りを捧げる。ここでは、犯人捜しはさておき、発生した火を消しとめることに注力するミカゲの描写に表れている。

目の前の火を消し止めるならば、まずは火を消すことに注力しなければならない。

すれ違いが起きた時に大切なのは、今の目の前にいる相手を信じて、今を生きる自分の心を信じて、「言葉」にのせて「話し合う」ことなのである

過去の経緯はさておき、今を生きる巴衛は奈々生を信じ、奈々生は巴衛を信じ、それを「言葉」にのせて話し合うことが必要なのだ。相互理解のスタートラインは「話し合い」である。



夜鳥がラスボスである理由


メタ的には、夜鳥というのは、

巴衛の本質をみないが故の奈々生の意思軽視の側面と

奈々生の思いやりが故の巴衛の自由軽視の側面の

双方を反映した存在なのだ。

つまり、二人が「自由意思に基づく自己決定」を獲得するために克服すべき課題を表象するものだったのだ。

夜鳥の悪羅王に対する器重視の執着は、霧仁たる本質の軽視であり、

夜鳥の悪羅王復活のための暗躍(時として式神その他霧仁の大切な存在まで壊す)は霧仁の選択の自由を奪うものであり、

主役二人の課題が増殖された形で投影されているもの。

だからラスボスであり、滅びるしかなかったのだ。


ミカゲ社を出る選択について(第24巻第142話)


奈々生は人の世に戻ることを決意するものの、瑞希やミカゲ社の面々、巴衛自身も慮って揺れている。

「瑞希の気持ちを考えたら一番辛い」(第24巻第142話)
第24巻第142話


巴衛が奈々生を見つめている一方で、奈々生は目線を巴衛にあわせず、若干そらしている。この瞬間、奈々生の心を占めるのは瑞希やミカゲ社の面々だからだ。

巴衛がそのタイミングで神と神使の契約のキスをするのは、単に神使に戻りたいからではない。またしても「思いやり」で自己の意思を抑制している奈々生の手をいわば引っ張っているのである。

「今は神と神使の契約だがそんなもの早くなくなればいいと俺は思っている」(第24巻第142話)

第24巻第142話


巴衛が「神と神使の契約」など早くなくなればいいと発言するのは、火の山の頃に、「自由」の本質は「心の自由」即ち「意思の自由」にあることを認識し、自由意思の制約の象徴でしかない契約関係を早く解消したいからである。

「神と神使の契約」は「口づけ」で成立し、そこには双方の自由意思の表明と合致が存在しない。そこにあるのは神の意思のみである。神使側の意思が徹底して制約されるのも、そもそも契約関係の成立・維持に、神使側の意思が不要だからだ。

「お前が泣こうがわめこうが俺は人間になるぞ」(第24巻第142話)

妖力や寿命、神使という役職・・・いろいろなものを手放していくのに、巴衛の台詞に迷いはない。それは、彼が「自由になりたい」という自らの願いを素直に希求するという、まさに彼の本質による所以である。


瑞希との対比


第24巻第143話

「一番嫌なのは信頼している奴に本心を言ってもらえないことなんだぜ 怖がってないでちゃんと奈々生と向き合え」(第24巻第143話)

最終章において、奈々生は、まさに奈々生を思いやって本心を言わない瑞希と向き合うことになる。

瑞希がこのような思考パターンに陥るのは、瑞希と奈々生が似ているからである。黄泉で寿命問題を隠していた奈々生に対して瑞希が理解をしていたのも、やはり瑞希と奈々生が似ているからである。

奈々生はおそらくここで、自らの鏡として瑞希をみたはずだ。

奈々生に向き合わない瑞希の姿は、巴衛と向き合うことを怖かって本心を伝えなかった奈々生自身を映す鏡である。

奈々生は、思いやって巴衛に本心を言わないでいたことが巴衛を傷つけたり、寂しく思わせていたことを再度認識したはずである。

だからこそ、奈々生は、瑞希に対して、本音で向き合うのである。



まとめ

今回は、「自由」を至上価値と仮定した場合の過去編終盤の行動と黄泉での問答の解釈を試みた。

過去の顛末を知った巴衛が何を思ったかについての説明描写が省略されているからここはいろいろ解釈の余地があると思う。


巴衛は「奈々生を支える」ことで奈々生の「自由」を実現するという夢をみており、

奈々生は「巴衛を支える」ことを通じて巴衛の「意思」を実現することに夢をみている。

お互いに夢を見ているとはそういうことだ。

すれ違いが生じたら、相手を信じ、言葉で話し合う。それでさらに絆が深まる。

最終的に巴衛と奈々生はその境地に達するのである。