本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
前回の記事 「神様はじめました」考察 夜鳥の企み② 巴衛と夜鳥の最後の闘いの意味するものは
美のカリスマ「煌かぶり」の創作活動
そもそも、夜鳥は、毛玉を核とし、煌かぶり、助、その他取り込まれた出雲の神々や依り代たちのいわば怨念の集合体。
過去の毛玉個人は巴衛に執着はなかったはずだけれど、夜鳥のいわば「知恵」部分の「煌かぶり」成分が巴衛を欲したのだろう。
なにしろ、彼は巴衛を気に入っていたから。
第16巻第91話 |
「あれが美丈夫と噂の巴衛殿ですかぁ 間近で見てもゾクゾクしましたねぇ 実に生きているのがもったいない あの美貌は死んでからこそ生きるというもの 巴衛殿の死に目にはぜひあいたいものです」(第16巻第91話)「この美のカリスマが地べたに這いつくばって…雨風にさらされるなんて…! 絶対に許しません…っ」 (第16巻第95話)
毛玉単体は、虐められて自己否定に陥った哀れな毛むくじゃらの生き物。
しかし、毛玉が煌かぶりと融合したことによって、おそらく、煌かぶりの残虐性、偏愛、ずる賢さ、悪知恵といった部分も継承してしまったのだ。
だからこそ、その後の告げ口する際の毛玉はダークな描写なのである。
振り返れば、二郎に醜さを指摘されて驚愕していたのは「煌かぶり」成分だったのだ。美のカリスマだから!
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火の山のふもとで、夜鳥が奈々生を攻撃した時に、咲いた球根の花を食べて狐姿から神使に戻った巴衛が奈々生をかばった時、夜鳥は攻撃の手を止め、「巴衛殿!?その姿どうやって戻ったのですっ」と尋ねる。
第23巻第136話 |
夜鳥は狐姿の巴衛には興味を示さなかった。しかし、神使に戻った巴衛には反応した。
そして、怒りに燃える巴衛が、奈々生に「妖に戻せ」と言ったときに、夜鳥は笑みを浮かべる。これは単に悪羅王の器を見つけさせるために利用しようとするだけでなく、巴衛が「怒り」で我を忘れているのを見て喜んでいるのだ。そして、妖姿に戻るのを期待しているのだ。
第23巻第136話 |
夜鳥は、悪羅王の魂を闇側に引きずりこむことには失敗したが、次のターゲットを巴衛に移したのだ。怒りで我を忘れている巴衛は、負の感情=ケガレの真っ只中にいる。このときを好機とばかりに、巴衛を自らに引き込もうと企んだ。それがこの「笑み」に表れているのである。
そして、そもそも煌かぶりが気に入っていたのは野狐バージョンの巴衛の美しさだったから、彼の芸術作品の素材としては妖姿が良いのだ。悪羅王の器ですら、夜鳥(煌かぶり成分)にとっては巴衛をおびき寄せる餌にすぎなかったかもしれない。
いずれにしても、夜鳥(煌かぶり成分)が狙っていたのは、巴衛である。多分巴衛は気付いていないと思うけれど…。
巴衛が美人だから巴衛の顔で生きていくつもりだったに違いない。
黒麿の残留思念があるだけで強大な力をふるう夜鳥。
不死身の体と強力な狐火能力を備えた、完全無欠のダークフォースの誕生・・・おそろしすぎる。まさに人間界は闇で覆われてしまう。そんな帰結は「神使」としてはあるまじき選択なのに、それでも一歩足を踏み出しかけた我らが狐様は一体・・・
夜鳥+黒麿の破壊的な手+悪羅王の不死身の再生能力+巴衛の強力な狐火+巴衛の美貌
=美の集大成・芸術作品
まさに煌かぶり視点では「美の集大成」「芸術への昇華」なのである!
第16巻第91話 |
「大切なのはぁ そこに美があるかどうかじゃないですかぁ この雑多な寄り代達も私の手によってこのように芸術へと昇華できたことを喜んでいることでしょう」(第16巻第91話)
悪羅王に執着していた成分は「毛玉」だが、巴衛に執着していたのは「煌かぶり」成分である。
夜鳥の一連の暗躍は、美のカリスマ「煌かぶり」の創作活動でもあったのだ。
「煌かぶり」の名前の意味①
「煌」かがやく。きらめく。あきらか。
会意形声。火+皇(クワウ)(かがやく)。
「かぶり」頭にかぶるもの。
つまり、巴衛(火)を頭にかぶり(同化して)一緒に輝きたかったということだ。
夜鳥(煌かぶり成分)が頭に被りたかったのは毛玉ではなく巴衛なのだ。
第16巻第91話 |
煌かぶりの「作品」を見て「げー」と呟く巴衛は、きっとこのとき自分も創作活動の材料としてみられていることを知らない・・・
煌かぶりの名前の意味②
本質的には夜鳥の煌かぶり成分がラスボス。これぞまさに「器と本質」。
「かぶり」が平仮名表記なのも伏線である。
「かぶり」は、「被り/冠」の他、「頭」(あたま、かしら)とも表記可能である。
つまり
「煌被り」と読めば、巴衛(火)を被って(融合して)輝きたい
「煌頭」と読めば、雑多なモノの集合体たる夜鳥の頭=ラスボス
お日様VS闇夜のバトル
対するは、我らがお日様、人の子・奈々生である。
全編にわたって、黒麿、悪羅王、巴衛を浄化してまわる。
煌かぶりの芸術活動・創作活動を悉く邪魔する奈々生はさぞかし邪魔で仕方なかったことだろう。
だから夜鳥が「神の道」で奈々生に会った時の会話になる。
「あのように強大で美しく」は巴衛のことで、煌かぶり成分は大妖怪の巴衛を気に入っていた。だからこそ、奈々生が巴衛を「人間=虫けら」におさめるのは気に入らないのだ。
第21巻 |
それゆえ、夜鳥は奈々生を「神の道」で殺そうとするわけだ。
第21巻 |
「やはりあなたは捨てておけない 霧仁殿が人間になびく前にここで始末しておく」(第21巻)
まさに闇夜VSお日様のバトルなのである!
しかも当の奈々生本人は無自覚に浄化してまわるのである。
まさにお日様のような闘い方だ。
鞍馬山で夜鳥を退魔結界でやぶり、神の道でも夜鳥に白札をはったのは、「お日様」の「日の光」の前に闇は勝てないからなのだ。神の道でのバトルも、もし奈々生の体調が万全だったら成敗できたはずである。
物理面、器としては
巴衛が奈々生を助ける側だけど
精神面、本質を見れば
奈々生が巴衛を助ける側だ。
それを「支え合う」と表現するのか・・・
これもまたやはり強い女の子が男の子を助ける物語の系譜だ。
「姫太郎」とは:桃太郎の鬼退治の男女逆転バージョン
夜鳥が雪路の告げ口をして巴衛と悪羅王を仲違いさせて二人を奈落の底へ突き落したのも、いわば闇の力に引き寄せようとする闇夜の謀略。
物語のラスボスは夜鳥(煌かぶり成分)。狙われていたのは巴衛である。
奈々生・巴衛・夜鳥の関係性を表すならば、「桃太郎の鬼退治の男女逆転バージョン」なのだ。
桃太郎=奈々生
お姫様=巴衛
鬼=夜鳥(煌かぶり成分)
鬼にさらわれたお姫様を桃太郎が助ける話し。
=夜鳥に狙われた巴衛を奈々生が助ける話し。
実にしっくりくるではないか。奈々生の式神の護も猿である。桃太郎の鬼退治の系譜だからだ。
奈々生の巴衛に対する向き合い方は「助けてあげたい」「救ってあげたい」「何かしてあげたい」と思っていつも探し回って手を差し伸べる。
それは彼女が「桃太郎」で、巴衛が「お姫様」だから。
だからこそ、巴衛は美人だし、奈々生は勇ましいのだ。
思えば、「姫太郎」という名称が、過去編のちびっこ巴衛の仮名であった。それはまさに、彼が桃太郎の鬼退治におけるお姫様ポジションだからなのだ。
桃太郎=桃園奈々生
お姫様=巴衛=「姫太郎」
鬼=夜鳥のうち「煌かぶり」=火(巴衛)と同化して輝きたい
毛玉はどうすればよかったのか?
自己否定にまみれた毛玉は哀れだけれど、自己否定は他者攻撃では救われないということなのだ。
悪羅王に感謝されなかったのは、亜子や式神を壊したのが直接的な原因だけど、そもそも「煌かぶり」を食べてしまったのが彼の顛末の遠因だ。
そもそも、悪羅王の体と同化した夜鳥(毛玉成分)にとっては、巴衛を待つ理由がない。
あそこで巴衛を待ったのは、煌かぶり成分。
煌かぶりが引き止めた。結果的に毛玉も巻き添えを食った。
だから毛玉は煌かぶりを食べなきゃよかったのだろうね。
自己否定は他者攻撃では救えないということなのだろう。
人間の負の感情の具象化
「俺はもう一人ではなかった」というのは、夜鳥は負の感情の者同士で寄せ集まって集合体を形成していたけれど、巴衛は奈々生がいて温かく感じているから負の感情に仲間入りはしないということだろうか。
単純に一個体の悪人が出るよりも、それぞれの個体としては大したことはないけれど、集合体になって強くなった悪役というのは、「人間の負の感情の具象化」だから。
描かれているものから浮かび上がるのは、「感情」と「理性」の対立と言ってもいい。
更に俯瞰すれば「心の成長」なのである。
「助六」成分はどこへ?
毛玉が最終的に吸収されたのは人間の「助」。
人間の器であるにも関わらず、夜鳥は「妖怪」。
これもまた、「器」ではなく「本質」が大事だということ。
本質的に妖怪だからこそ夜鳥は妖怪なのだ。
「助」の成分は「よく食べること(卑しさ)」と「記憶」のみ継承され、おそらく残りは消えた。
まとめ
この期に及んでまた新たな発見をしてしまった。
奥深い作品である。
関係性やエピソードごとにいろいろなモチーフが使われているのはわかっていたけれど。
それにしてもラスボス・ラストバトルは日本における昔話の一番手、桃太郎の鬼退治であったのだ。
「煌かぶり」は、奈々生にも最初チョロいと思われて、一瞬で姿を消す役割で、本作品のWikiには名前すら載っていない。
まさに「器と本質」である。