本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
今回の考察内容
『神様はじめました』においては様々な情景が実に象徴的な意味を持って描かれています。今回はそのうちの主要なものをリストアップしてみました。情景について考察することで、さらにその時々のシーンにおける登場人物の感情や関係性が浮かび上がるように思います。
特に、後半における、奈々生の寿命問題に関連する一連の情景は奈々生や周囲の人たちの心情描写として秀逸だと思います。
十二鳥居で見た夕日(第11巻)
奈々生目線⇒みんな帰るタイミングの合図だからよく見ていた
巴衛目線⇒夕日=お日様=奈々生
⇒奈々生の存在が彼の心の中で大きくなっているということ
嵐すさぶ嵐(沖縄)
- 荒れすさぶ嵐=霧仁の心
- ウナリの心
晴れ渡った沖縄の空
- 霧仁の心が奈々生により救われたこと
- ウナリの心が瑞希により救われたこと
沖縄の花火
- 強すぎて時に反発し、時に惹かれ合う巴衛と奈々生の恋は花火そのもの。瑞希達の支えを得て夜空に大輪の花を咲かせていた=恋を継続。
- 眩しくて見ていられない。痛々しくて見ていられない二人の恋。奈々生が傷つくことのないよう見守る瑞希。
- 花火=一瞬で消える。二人の恋に内在する危うさ。お互いに傷つけあい、すれ違い、それでも求め合う奈々生と巴衛の恋。
- 一瞬にも思える刹那に美しく輝く人間の生き方そのもの。恋の成就にあたり、二人で人間になることの暗示
「神様はじめました」考察 花火が海面に映る沖縄の情景は何を象徴するのか 巴衛・奈々生・瑞希、三人の関係性の本質とは
血みたいに真っ赤な空(第21巻第121話)
- 奈々生が不吉の前触れと感じたように、夜鳥の企みの象徴
- 夕焼け=日が沈む=落日= 霧仁に精気を奪われた奈々生の命の期限が迫っていること
「昼間みたいに明るい」神の道(第21巻)
- 巴衛のいる出雲に向かう奈々生の心=奈々生の巴衛に対する気持ちの象徴。
- 同時にまだ自身の寿命問題を知らず、明るい心。前向きな心。
明るい神の道から暗い下層界への転落(第21巻)
⇒ 夜鳥から寿命問題を教えられ、絶望という名の奈落の底へ堕ちる彼女の心。
※ 夜鳥は人々の負の感情を増幅させ穢れへ導く存在であり、奈々生を絶望させたことで彼の目的は達成されたと思われる。
暗闇に沈む黄泉(第22巻)=お先真っ暗な奈々生の心
イザナミの一連の行動は奈々生の心に光明をもたらすためのもの。
イザナミの茶会で奈々生は笑顔になった。
※ 「神様はじめました」考察 黄泉の闇夜は何を象徴するのか?(第22巻)
雪降り積もる黄泉(第22巻)
霧仁、瑞希、巴衛の三人の感じる孤独感。
※ 夜鳥は人々の負の感情を増幅させ穢れへ導く存在であり、奈々生の寿命を告げることで巴衛を揺さぶり、彼の目的は達成された。だからこそとどめを刺さなかったと思われる。
雪の迷路(第22巻)=お先真っ暗状態で惑う奈々生の心
黄金の湖(第22巻)=温かい瑞希の心
→瑞希は心地よい一体感を感じられる相手であり、最終的に還る場所
→奈々生は瑞希に癒される
⇒ 奈々生は巴衛を連れて瑞希のところへ還る。
「神様はじめました」考察 始まりの場所「黄金の湖」は何を象徴するのか 三人の新たな関係性構築の可能性
再び光のさす黄泉(第22巻)
- 瑞希に癒され、巴衛を元に戻す展望が見えたことで、奈々生の道行きに光が射した。
- 奈々生により霧仁が浄化されている。
第22巻 |
火の山(第24巻)
火の山=巴衛の心
龍神の羽衣=瑞希の支え
巴衛(火の山)は奈々生に対して熱い想いをもって求めている。
怖くても巴衛を心配して「勇気を出して前へ進め!」と言って瑞希からもらった龍神の羽衣をまとい火の山に入っていく
⇒ 巴衛を思いやり、瑞希に支えられながら、巴衛に手を差し伸べ続け、彼の心の中に飛び込んでいった、作中における彼女の姿そのもの
※ 「神様はじめました」考察 「火の山」(第24巻)は何を象徴するのか 巴衛の想いと奈々生の向き合い方
雪道(第25巻)
→いろいろ置いていくことで寂しさを感じる奈々生の心
暗いミカゲ社が明るくなる(第25巻最終話)
→ミカゲ社が再び「お日様」を迎えるということ
→奈々生の帰還