本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
火の山(第24巻)は巴衛の心の象徴
(麓から見る火の山はまるで天まで届く炎の壁みたいだ)(第23巻第135話)
燃え上がる火の山 = 巴衛の激しい感情の象徴
私はかつて巴衛の奈々生に対する愛は「深海のように深い」と解したけれど、そうではなかった。
「熱く燃え上がる火の山」のような愛し方なのだ。だから「熱い想い」なのだ。
そもそも、黄泉は死者の国であり、入り口は扉で開け閉めする。「天」はない。
だから「天まで届く」というのは比喩である。
要するに、「天」=「お日様」=奈々生に手を伸ばす巴衛の想い方を表現しているのだ。
※ 日本では、太陽を天道様(おてんとさま)とも言う。天道とは、太陽が天空を通過する道。
なお、奈々生の愛し方も「大海原のように広い」ととらえたけれど、それも違う。「お日様のような」愛し方なのだ。つまり、万物を分け隔てなく照らす、温かい日差しである。
奈々生の「火の山」に対する向き合い方
奈々生が「黄金の湖」に対して感じる「あたたかくて心地好い、幸福な一体感」が、まさに、奈々生が「ミカゲ社」もしくは瑞希に対して感じている気持ちの説明である。
そして、奈々生の「火の山」に対する感想が、奈々生が巴衛に対して感じている気持ちの説明であり、奈々生の「火の山」に対する向き合い方が、そのまま彼女の巴衛に対する向き合い方の説明なのだ。
「熱い」
「麓から見る火の山はまるで天まで届く炎の壁みたいだ」
怖くても巴衛が心配だからと言って「勇気を出して前へ進め!」と言って瑞希からもらった龍神の羽衣をまとい火の山に入っていく彼女の姿は、巴衛を思いやり、瑞希に支えられながら、巴衛に手を差し伸べ続け、彼の心の中に飛び込んでいった、作中における彼女の姿そのものである。
夜鳥との対決が意味するもの
メタ的には、闇夜の穢れの化身たる夜鳥と対峙する巴衛の姿は、
巴衛自身の心の中での葛藤を描いたものである。
自分の中の怒りの感情に我を忘れている状態。
そこでの夜鳥はいわば触媒であり、負の感情を増幅する装置。
巴衛は最終的に自分で負の感情を昇華して、コントロールできたということ。