2020年10月17日土曜日

「神様はじめました」考察 「三つ巴」から「話し合い」へ

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


巴衛はなぜ奈々生を許すのか


巴衛が「自由」を束縛するとして時に苛立ち、憤る、奈々生の「思いやり」はしかし、彼が恋い焦がれる「日の光」、即ち彼女の笑顔であり、優しさの象徴でもある。

奈々生の思いやりは時に彼の「自由」を束縛し、彼の心も傷つけるのだけれど、それでもなお奈々生を許し、求め続けてしまうのは、彼が恋い焦がれる奈々生の本質が「お日様」であり、彼女の優しさであり、つまりは「思いやり」と根っこが同じだからである。

巴衛にとっては「愛」も「自由」も大事なのだけれど、もし究極の選択を迫られたら「愛」の方をとるのだ。それは彼の本質が「火」であり「熱い想い」だからであり、「愛」を求めずにはいられないからだ。


奈々生はなぜ巴衛を許すのか


巴衛は時として、奈々生の「意思」や「心」を軽視し、奈々生は、時に憤り、時に悲しみ、傷つく。

しかし、彼女は巴衛に喪った「家族」をみているため、まさに彼を思いやり、彼の暴走も結局許してしまうのである。

奈々生の本質はお日様であり、日の光の如き愛し方なのだ。


思いやりとみんなへの愛


奈々生が霧仁を救ったのも、同様で、お日様なので、霧仁にも手を差し伸べるのだ。まさに「思いやり」の極みである。

いわば人類愛のために個人の自由としての一番大切な「生命の自由」をも差し出してしまう彼女の姿は、個人としての「愛と自由」を至上とする巴衛と実に対極的である。巴衛が奈々生に求めているのは「巴衛個人に対する愛」であり「みんなへの愛」ではない。

ウナリへ手を差し伸べる瑞希や、霧仁に手を差し伸べる奈々生の根底にあるのは「みんなへの愛」であり、「みんなへの愛」を突き詰めた最終形態が大国主様であろうか。

しかし、個人レベルの「愛と自由」を実現したい巴衛は彼女を「手」をつかみ、引っ張り、「共に生きたい」と叫ぶわけである。

このような巴衛の「愛と自由」に対する素直で強い欲求、熱い想い、それが現れる「手」が、やはり奈々生の惹かれるものなのだろう。

つまり、時に奈々生を傷つける巴衛の「自由」への強い欲求が、同時に奈々生に「個人として生きる」ことへの渇望を呼び起こし、自由をもたらすからこそ、彼女は巴衛の手を取るのだ。


愛を受け止めるとは

奈々生の「私を愛してるなら私の愛を受け止めて」(21巻第125話)も実に深淵な問いを投げかける。

奈々生の愛は「思いやり」「背負うこと」として表れる。⇒時として巴衛の「自由」を軽視

巴衛の愛は、「守ること」「囲い込むこと」として表れる。⇒時として奈々生の「意思」を軽視

奈々生目線では、自らの「思いやり」を拒絶する巴衛は「愛」を受け止めていない。

しかし、巴衛目線でも、奈々生の一連の行動は、巴衛の愛を受け止めるものではなかったのである。

「三つ巴」による中和

巴衛の「自由」と奈々生の「意思」はそれぞれ強すぎるが故に、反発し、時に求め合い、時に傷つけあう。

だからこそ、融和する第三の力が介在し、均衡を保ちつつ、一定の方向へ発展を遂げたのである。まさに「三つ巴」である。

その役割を全般的において担ったのが瑞希である。そして、瑞希が不在だった鞍馬山終盤では鞍馬がその役割を担い、また、過去編終盤や、人間になりたいと言いだした時はミカゲ様が担ったのである。

過去編終盤は「愛」、人間になりたい案件のときは「生き方」であり、まさに根幹にかかわるからこそミカゲ様が登板したのだろう。まさにこれこそ縁結びである。

神に限らず、反発し合う二つの力を結びつける第三の力の働きこそが二人の距離を縮めたのである。

過去編

巴衛側の視点は時として省略されているけれど、過去編での奈々生の一連の行動は、巴衛の「愛」と「自由」の根底を揺らがせる大事件である。

だからこそ、経緯を説明するのはミカゲ様でなければならなかった。奈々生と巴衛の二人だけでは、関係性の破綻まで孕むリスクが内在するからだ。

巴衛と雪路の縁を邪魔したくない⇒思いやり

過去を変えてはいけない⇒禁忌、ルール

雪路は奈々生の先祖⇒雪路を助けて守ったことには意味がある

等々、理由・理屈があり、「頭」で理解したとしても、「心」は別である。

だからこそ、ミカゲ様が入って中和したのである。


沖縄置き去り事件

沖縄編の最後で巴衛が奈々生に怒ったのも、やはり、奈々生の一連の行動は、

奈々生を守りたいという彼の「愛」の拒絶と

状況に応じて適切な解決策を考え行動する「自由」の制約であり、

その結果まさに何よりも大切な奈々生自身が死にかけるという、巴衛の価値を根底から揺らがせる大事件だからだ。

だから宿泊先に置き去りにするのだけれど、そこでは瑞希が奈々生の気持ちを説明してあげることで融和したのだ。


「人間になりたい」事件

「人間になりたい」と言いだした巴衛を奈々生が一旦ストップした事件も同様である。あの時も巴衛は憤った。

巴衛目線では、やはり巴衛の奈々生に対する「愛」と巴衛が自らの生き方を選ぶ「自由」の否定だからである。

だからこそ、ミカゲ様が介在して融和したのだ。

奈々生の巴衛に対する向き合い方は「思いやり」が基本なので、「巴衛の寿命が縮む」という事態は、奈々生からすると到底受け入れがたいのである。

だからこそ、「寿命が長ければよい」というものでもないという事例を提示してあげる必要があったのだ。

奈々生が考えを変えたのはやはり巴衛への「思いやり」である。


寿命問題秘匿案件

寿命問題秘匿案件も同様で、

奈々生は「人間になりたい」という巴衛の願いを支えたかったので、巴衛を不安にさせて折角人間に向いた関心がなくなることが怖かったのだ。

一方、巴衛目線ではやはり彼の「愛」の拒絶と「自由」の制約なのだ。


「三つ巴」から「話し合い」へ


ということで、この二人は延々と同じことをくり返しているのだ。

しかし、いつまでも他者に融和してもらっていては二人の恋は成就しない。

そこで、第三の力として、他者ではなく、「言葉」という「心」を伝える人類最強のツールを使うことにしたのである。

巴衛が心が大事だとわかることによって。二人のすれ違いの根底にあるのは相互理解の不足である。

巴衛が心の重要性を知り、言葉の力、即ち、「言葉により自己の心を認識し、言葉によりそれを他者に伝える」ことを理解したからこそ、最終章の彼は、奈々生の気持ちを言葉で確認し、また、自己の気持ちを言葉で伝えるようになるのである。

つまり「話し合い」である。

本作は、妖怪と人間、巴衛と奈々生という、全く価値観の違う者同士が関係性を構築することの難しさをリアルに描いているが、その解決策の一つとして、「話し合い」を提示しているのである。


「誰が悪いという話ではありません」 (第21巻第121話)


実は、冒頭は「家族愛」からスタートした奈々生の想いは、一旦、「巴衛個人に対する愛」に変わっていたのだ。しかし、その時に巴衛が拒絶し、報われない恋を受容したからこそ、奈々生は「みんなへの愛」に目覚めるのだ。

奈々生が巴衛に「個としての愛」を求めた時は、巴衛は受け入れられず(人間アレルギーに象徴される「自由」への希求)、

巴衛が奈々生に「個としての愛」を求めた時は、奈々生は「みんなへの愛」に目覚めており(思いやりに象徴される強い「意思」)

彼女の目指すものの次元が変わってしまったのである。まさに「神様らしい」女の子になってしまったわけである。だから二人はかみ合わないのである。

さらにさかのぼれば、巴衛が人間アレルギーに陥ったのは奈々生の過去の行動に遠因がある。奈々生の過去の行動は、物語の前半で巴衛が奈々生の意思を軽視したことに遠因がある。

タイムトラベルものから浮かび上がるのは、グルグル回る因果だ。二人の一連のすれ違いは、ミカゲ様の言う通り、誰が悪いという話ではない。

原因と結果の「因果応報」的思想に囚われていても、目の前の課題を解決しないということだ。巴衛と奈々生、どっちが悪いという点を追及する前に、まず、目の前の課題を解決することに注力しなければならない。

それが「話し合い」である。

巴衛と奈々生がすれ違いの無限ループから抜け出せたからこそ、奈々生の家系の呪いも解消し、新しい縁の糸が始まったとも言える。

*************************

狐火仕様の台所についての問答はこのような考えを示している。

巴衛が狐姿になり、奈々生が料理をする。奈々生は台所でボヤ騒ぎを起こす。台所の火器が狐火仕様のため、奈々生が使いこなせないのだ。

巴衛(火)に振り回される奈々生(神)の姿を描くものであり、同時に、

「火事」という自然現象に対して、人間がどのように向き合ってきたかを描くものである。

因果応報論によって立つならば、「火事」を起こした者が悪いということになり、犯人探しが始まる。台所を使いこなせない奈々生が悪いのか、それとも、狐火仕様の台所にしておいた巴衛が悪いのか、という議論が始まる。まさにこれが因果応報論に基づく考え方である。

一方、神道では、因果応報論のようにはとらえず、発生した不幸は自然の一部ととらえて祈りを捧げる。ここでは、犯人捜しはさておき、発生した火を消しとめることに注力するミカゲの描写に表れている。


第21巻第121話


「大丈夫落ち着いて奈々生さん 君が台所を焦がすのは別に初めてではありません 今日で三度目です」

「お言葉ですがミカゲ様 奈々生ちゃんのせいではありません この台所の火器は全部狐火仕様なんです 悪いのは巴衛君です」

「誰が悪いという話ではありません 瑞希くん 落ち着いて二人共」

(第21巻第121話)


直接的には狐火仕様の台所についての会話だが、ミカゲの台詞は、物語先般における巴衛と奈々生のすれ違いについて、どちらが悪いという話ではないということを説くものだ。

目の前の火を消し止めるならば、まずは火を消すことに注力しなければならない。

すれ違いが起きた時にまず大切なのは、今の目の前にいる相手を信じて、今を生きる自分の心を信じて、「言葉」にのせて「話し合う」ことなのである