2020年10月4日日曜日

「神様はじめました」考察 喪失⓷ 奈々生「大切なひとが悲しむのが怖い」(第22巻第29話)

本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


本作では、過去の喪失体験が現在の登場人物の行動パターンに与える影響の大きさを描いている。


翠郎の翼→鞍馬は飛ぶ自分を受け入れることが出来なくなり御山を降りる

ヨノモリ様→瑞希は奈々生に自分の神様を求める

雪路→巴衛は人間を求められなくなる

そして、逆算して考えると奈々生の無茶な行動の遠因が、

幼い頃に無力な自分が助けられなかった母の喪失体験

に遠因があると推察できるのである。


こうしてみると、誰かに喪失の苦しみを味合わせることは、たとえそれが人助けであったり、やむを得ない事情であったとしても、できるだけ回避すべきことなのだ。

それが「無理をしない」、助け合い支え合うということだ。

第22巻第29話


寿命問題に向き合った奈々生が知ったのは、「大切な人を置いていくこと」によって「大切な人が悲しむこと」に対する恐怖である(第22巻第29話)。

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かつて奈々生は「自分のことなら平気」と思って出雲行きに巴衛を連れて行かず、「置いていく」のだが(第7巻第39話)、その時は巴衛がどんなに心配するか理解していなかった。

(神様が…あんななんて…自分のことなら平気 でも…巴衛になにかあったら平静でいられないに違いないんだから)(第7巻第39話)

それはひとえに彼女が保護者のいない子どもであり、「一人で太る」(第11巻)しかなかったから、心配された経験の少なさによるものだろう。

巴衛を出雲の神議りに連れて行かず置いていったのは彼女の「思いやり」だが、喪失の恐怖に怯える巴衛を思えばむしろ連れていくべきだったのだ。

錦編では、社ごとさらわれた奈々生が、

たとえ私一人誰も味方がいなくても社を守る

私だけ逃げるわけにはいかない

と独力で事態の打開を図る意気込みをみせる描写があるが、勇ましいものの、結果として魂を抜かれて体を乗っ取られてしまうのだ。

むしろ効率や確実性を考えても早く逃げて巴衛や瑞希の助けを求めるべきなのだ。

彼女が動くキャラだからこそストーリーが展開していくのだから、一連の無茶な行動は設定上やむを得ないことは言うまでもない。

しかし、心配して神経をすり減らす巴衛からすれば「無責任な行動の数々」と言えるのかもしれない。

過去編における花嫁の身代わり、沖縄修学旅行であみや霧仁を助けるシーンでも、奈々生の基本路線は同様である。

ようやく転機となるのが、奈々生が寿命問題に向き合った時である。

巴衛も同時期に「器と本質」問題に向き合う。

永遠にすれ違いするわけにもいかない。ここでようやく奈々生と巴衛もレベルアップして大団円に向かうのである。

寿命問題に向き合った奈々生が知ったのは、「大切な人を置いていくこと」によって「大切な人が悲しむこと」に対する恐怖である(第22巻第29話)。

故に奈々生は周囲に言わない。瑞希にも巴衛にも。「怖い」とはそういうことだ。悲しませたくないという思いやりと言ってもいい。

過去の喪失経験に傷ついたことは確かである。

しかし、苦しい時に頼ってもらえないのもまた別の意味で傷つくのである。

「共に生きる」とは苦しい時に支え合うことでもある。

瑞希は奈々生と思考パターンが似てるから受け止めるけど巴衛は真逆だからこそ手を引っ張るのだ。