本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
前回の記事 「神様はじめました」考察 黄泉の闇夜は何を象徴するのか
・・・闇に包まれた黄泉の情景は、霧仁一派の狼藉により、寿命問題に直面し、お先真っ暗状態になった奈々生の心を投影するものである。
「今度こそわらわの遊び相手をさせてやるぞよ」
「今度こそわらわの遊び相手をさせてやるぞよ」というイザナミの言葉は「神遊び」を念頭に置いたものであろう。「神遊び」とは、神前で歌舞を奏して神の心を慰めることをいう。天岩戸神話が起源。
天岩戸神話では天照大御神が隠れたことにより闇に閉ざされ、世に穢れが蔓延する。日の光を取り戻すために天岩戸の前で行われた祭は、穢れを祓う神事である。日の光は穢れを祓う「清らかな」もの。神代の頃、日の光を取り戻したことにより、穢れは浄化された。
イザナミの「遊び」は茶会とかくれんぼだ。形式的には戦神の狼藉により怒ったイザナミの機嫌を取って黄泉に光を取り戻すもの。しかし、実質的には奈々生の心を慰めるものだ。茶会で奈々生は自然な笑顔を見せることができた。奈々生の本質はお日様であり、奈々生の笑顔の本質は古来より闇夜の穢れを祓う「清らかさ」を体現するものである。
雪の迷路(第22巻)は、お先真っ暗状態で惑う奈々生の心だ。奈々生自身も孤独を感じており、また、先行きが見えない中で惑っている。
かくれんぼの最中、イザナミは奈々生に人の還る場所を見せ、また、巴衛を元の姿に戻す球根を奈々生に与える。これにより、霧仁一派の狼藉により寿命がわずかとなりお先真っ暗状態だった奈々生の心にようやく光が射しこむのだ。
死と再生の女神であるイザナミは、奈々生の寿命が残り僅かであることを早々に感知している。イザナミは奈々生の記憶を見てあみの姿をとっていることからも、また、巴衛はその場にいないのに人間になる動機の本音を把握していることからも、イザナミの能力をうかがい知れる。おそらく心をみれるのだ。
茶会もかくれんぼも、死期が近い奈々生をわざわざ疲れさせるために実施したのではない。彼女の心を慰めると共に、人の還る場所である黄金の湖を見せた。奈々生に死後の世界を見せることで、先行きを見せたのだ。いわばイザナミの愛である。奈々生の「ありがとう」という台詞は球根のみならずイザナミの慰め全般にかかるものだ。
その後に実際に奈々生は瑞希の助けを借りて扉を開け、黄泉に光を取り戻す。これは奈々生(お日様)がイザナミや瑞希に慰められ、再び日の光を照らし始めたことを暗喩するものだ。