本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
「愛」と「自由」の回復
巴衛が徹底的に奈々生の「思いやり」や「背負われること」を拒絶するのは、巴衛自身が「自由になりたい」からであり、奈々生にも「自由になってほしい」からだ。
時として奈々生を突き放すほど彼の人間アレルギー(「人間は弱いから求めたくない」)が強いのも、再び失って「悲しみ」に囚われて「自由」を奪われるのが嫌だからだ。
自身の「自由」の為に奈々生の想いに応えることができないからこそ、守る以外に何もしてやれないし(鞍馬山編)、奈々生に想い続けられても奈々生の「自由」を束縛することになる。だからこそ、巴衛は奈々生を求めないし、彼女の心(意思)にも寄り添わないのだ。
根底にあるのは、過去に喪失した「愛」である。
しかし、結局、彼の本質は「火」、即ち「熱い想い」であり、「愛」を知ってしまった「火」はもやは「愛」を求めずにはいられないのである。
「神使などあんな面倒な仕事辞めてせいせいしたわ」(第1巻第2話)と言っていた割には、ひとたび奈々生の神使となったらその役職に邁進し、契約解除された後も再契約し続けるのはその表れである。
だからこそ再び奈々生を取り戻した彼は、今度こそ彼女がいなくならないよう、壊れないよう、徹底的に囲い込む。
時として彼女の「意思」をも軽視するのは、彼自身が「心」「本質」の重要性を認識していないこと、そして、何よりも、再び「愛」を失いたくないからだ。
犬鳴沼で別人の魂が入った奈々生に向き合ったエピソードや、沖縄で、奈々生が修学旅行を楽しみにしていたのを知っていたにもかかわらず、体調不良だと言って問答無用で宿泊先のホテルに置き去りにするエピソードはその表れである。
沖縄編後に「人間になりたい」と言いだすのも、奈々生と共に生きる為、つまり再び「愛」を失わないためだ。巴衛の寿命が短くなることを心配した奈々生が思いやり、止めようとするのは、巴衛にとっては自身の「生き方の自由」を制約するものであり、かつ、まさに奈々生への「愛」のための行動を奈々生自身に制約されるから反発するのだ。
五百年前の二の舞いは御免だと言って、奈々生の意思(巴衛を支えられるくらいになるまで待ってほしいという願い)を無視してでも「進化の水」を一気飲みした彼の行動原理も同様である。
彼が奈々生にみていたのは、失った「愛」と抑圧されていた自己の「自由」の回復・確保であったのだ。
そして、悪羅王・夜鳥編で、彼女が寿命問題を黙っていたことに対して憤るのは、彼の「自由」(死期が近いとわかった彼女に対してどう向き合うかを選択する自由、対応できることはないかを考える自由、そして考えた解決策に向かって行動する自由)を奪われたからだ。
巴衛を傷つけたくなかったの、という奈々生の言葉に対して、「お前に思いやってほしいわけでも背負ってほしいわけでもない」と徹底的に拒絶する(第22巻)のは、彼女が自分を思いやり、支える為に、彼女自身が「辛い時に泣き言をいう」自由を抑えているからだ。
巴衛が求めてきたものは、彼自身の「自由」の尊重であると同時に、奈々生の「自由」の尊重でもあったからだ。
奈々生が巴衛の「人間になりたい」という願いを応援し、支えたいと思っているのと同様に、巴衛も、奈々生に「自由に生きてほしい」と思っており、支えたい、頼ってほしいと思っていたのだ。だからこそ、奈々生が自らの自由を抑制し、頼らないことに無力感を感じるのだ。
翻って鑑みれば、500年前に奈々生が事情も名前すらも教えずいなくなってしまったのは、巴衛目線では、「行動選択の自由」を奪われたに等しいし、奈々生が巴衛に助けを求めなかったということなのだ。ミカゲの説明を受けるものの(描かれていないが、おそらく過去を変えてはいけないから仕方ない、雪路が奈々生の先祖だから雪路を守ったことは意味があったのだ等々)、再会した直後は奈々生と向き合わずにいなくなってしまうのは、彼なりに思うところがあったのだろう。
とはいえ、彼は「愛」を求めずにはいられないから、将来を誓った証の「かんざし」を作り直しに出かけたのだ。おそらくその間彼なりに気持ちの折り合いをつけたからこそ、作り直したかんざしを渡し、奈々生と関係性を再構築しようとするのだ。とはいえ、彼の心のどこかにモヤモヤがくすぶっていたに違いない。そのモヤモヤが噴出したのが、黄泉での「そうやって笑いながらまた俺の前からいなくなる気か」という言葉なのだ。
しかし、なんだかんだで、結局彼が求めているのも奈々生の「心」であり、奈々生の「愛」を失わないためには自分も「心」を大切にしなければならないこと、また、自分の求めている「自由」の本質も「意思の自由」「心の自由」であることを認識する。
奈々生が「意思」「心」を大事にしていることを理解し、奈々生の行動原理、つまり、奈々生の思考パターンも少し理解した。
だからこそ、最終章では、巴衛は奈々生の心に寄り添うし、彼女が「思いやり」で自身の自由を抑えるといういつものパターンにハマってしまったときには、フォローするようになる。
招き猫回でバイトに精を出した彼女が寝込んだり、
遊園地デートで「思いやり」で気分が沈んでしまった彼女にフォローする彼は、
かつて「わからない」と言って投げだした面影はない。
言葉で奈々生に気持ちを尋ね、彼女の心を理解しようと努めるようになるのである。
彼らの間にあったのは、お互いが自分にとっての至上価値を相手に実現しようとするが故のすれ違いであり、その根底にあったのは、「言葉」によるコミュニケーションの不足による相互理解の欠如であった。
少しずつ距離の近づいた彼らは、相互に理解し合おうとする。まさに「心」の距離までも近づくことに成功したのである。
「俺は止めないよ」から「どこだろうと隣には俺がいる」へ
鞍馬山
「人の命は短いからな 生きたいように生きた方がいい あいつがここに残りたいと言うなら俺は止めないよ」(第10巻第60話)
突き放してるようにきこえるが、巴衛なりに奈々生の「自由」を想っての言葉だ。
ただし、この言葉は奈々生との「関係性の解消」までを含むものである。その根底にあるのは、「人間は弱いから求めたくない」という人間アレルギーである。
悪羅王・夜鳥編
過去編後に奈々生とお付き合いをスタートしてからは少し言い方を変えるのだ。奈々生との「関係性の継続」を前提としたうえでの「背負われたくない宣言」である。
「俺はお前と一緒に笑って同じ時を過ごしたいだけだ お前に思いやってほしいわけでも背負ってほしいわけでもない お前にとって俺は辛い時に辛いと泣き言一つ聞かせられないような甲斐性のない男か」(第22巻)
巴衛は奈々生と一緒に生きていくと決めたから
「俺は止めないよ」と言う言葉を、
「俺はお前と一緒に笑って同じ時を過ごしたい」
にアップデートしている。
金の招き猫回(第24巻第143話)
「お前が金銭に憂いていれば俺が賄うだけのこと 夢を見たいなら見せてやる だから望む人生を歩け どこだろうと隣には俺がいる 俺の夢はお前を世界一幸せにすることだ」(第24巻第143話)
巴衛は奈々生と一緒に生きていくと決めたから
「俺は止めないよ」と言う言葉を、
「どこだろうと隣には俺がいる」にアップデートする。
さらに、「夢を見たいなら見せてやる」というのは、奈々生が「意思」を大事にしているなら、それを尊重するということでもある。
まさにこれが距離が近づいたということである。
第24巻第143話 |
*************************
招き猫エピソード回は鞍馬山のエピソードの回収でもあるのだ。
あの招き猫回もいろんなメッセージが詰まっているものだ。